朝鮮学校排除を目的とした省令改悪とパブコメ

目にとまった記事

朝鮮学校排除を目的とした省令改悪とパブコメ
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/b92d6272b0612fe015521a8c20498043

これはとても明快だった。
ブログ「緑の五月通信」
朝鮮学校の無償化適用見直し法案パブコメへの意見ーひとことで言うと、「恥を知れ」ということ
http://d.hatena.ne.jp/takamm/20130107/1357573573

ほかに、こんなのも。
http://d.hatena.ne.jp/imo758/20100401/1270114409


ミヒャエル・エンデが、
タイトルを思い出せないんだけど、
「悪」を「中身のない家」にたとえて表現していた作品があった。

2010年頃何度か、朝鮮大学にも地元の朝鮮学校にも言って、いろいろお話聞かせてもらいましたが、学校の人たちが語る言葉は、先生も生徒も親も、とても具体的。共感するしないは別として、自分の言葉がそこにあるなとわかる。
自分の人生がそこにあるのだから、当然といえば当然なのですが。
なので、安心して信頼して尊敬もしておつきあいできる。

で、一方で、文科省の職員とか、議員とかとのやりとりは、なんかだまされたような気がする。新聞もメディアもそうなんだけど。思うに、言葉の責任は、それを語っている人のところにはなくて、大臣の指示であるとか、党の指示であるとか、圧力団体がどうとか、にあって、つまりだれも責任をとれないよね、それで、……だとすれば、とか、……らしい、とか、曖昧な伝聞推定の上に積み重ねられてゆく論理のどこに中身があるのか。

それでもって、その曖昧さが不安をあおるのだ。

ほんとうは、その曖昧な言葉を弄ぶ人たちへの不信となるべき「曖昧さゆえの不安」が、朝鮮学校への不信・不安にすりかえられてしまうところが、
すごいというか忌まわしいというか、それが、悪、というものなんだなと、しみじみ思うけど。

そもそもが他人事で、言論がどんなに曖昧にゆれても傷つきもしない「中身のない家」の住人になるのではなく、そこで傷ついてしまう人生がある人たちの側に加担したいと思います。人生の側に加担したい。