小さい白いにわとり

私が小学校1年のときの、国語の教科書に載っていた。

「小さい白いにわとり」

小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。
「だれがたねをまきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがむぎをかりますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなにひきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました、
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなにひきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなをこねますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなをこねました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンにやきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでパンをやきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンをたべますか」。
ぶたは「たべる」と言いました。
いぬも「たべる」と言いました。
ねこも「たべる」と言いました。



お話はここで終わる。もとはウクライナの民話らしい。
それで教科書的には、それから小さい白いにわとりがどうしたかを、考えましょう、というしくみなのだろう。

さてそれで、これを子どもと読んで、小さい白いにわとりは、それからどうしたと思いますか、ってきいたら、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを分けました」って言った。いい子だなあ。

それでみんながパンを食べたあと、「小さい白いにわとりは、ひとりでお皿を洗いました」ってことになるんだけど、きっと。

小さい白いにわとりは、いろんなことをひとりでしなきゃいけない。
そういうことはたくさんあるし、そういうもんだと思う。
それで、そういうひとりのときに、「小さい白いにわとりは、ひとりで夜道を歩きました」とか、つぶやいてみると、なんとなく、ひとりの私の傍らに、小さい白いにわとりがいてくれるようで心あたたまる。

さらに言うと、傍らにいるのは、人間ではなくて、小さい白いにわとりであることがすてきなのだ。
人間だったら、必ず横で、ぶつぶつ文句を言うにちがいない。おれはそっちに行くのはいやだとか、おまえのやり方はなってないとか。
それできっと、ひとりならできるはずのことまで、できなくなってしまったり、するんだわ。
小さい白いにわとりのような、なんでもない、あたりまえの勇気を、失ってしまう。
それで、ひとりでできないことは、2人いたって、100人いたってできない。何かをしようと思ったら、小さい白いにわとりになって、ひとりでする。

小さい白いにわとりは、たとえばお母さんのよう。
もちろん、私の子どものお母さん、ではなく、私のお母さん。

それで問題は、だ、小さい白いにわとりがいなくなったあと、
ぶたと、いぬと、ねこは、どうやって生きていくでしょう、
ってことだ。
ぶたと、いぬと、ねこ、のような私たちは。

でも私が、このお話を、大好きだったのは、小さい白いにわとりに感動したからではなくて、音読が楽しかったからでした。それは、「いやだ」と大きな声で何度も言えるのが、楽しかったのでした。
でもそれも、小さい白いにわとりが、いたから言えたことだあね。

子ども、お手伝いたのむと「いやだ」って言う。私だって、小学生の頃は(頃だけは)もうすこしお手伝いしたよ、と思うけど、

ま、似たようなもんか。