私が小学校1年のときの、国語の教科書に載っていた。
「小さい白いにわとり」
小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。
「だれがたねをまきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがむぎをかりますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなにひきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました、
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなにひきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなをこねますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなをこねました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンにやきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでパンをやきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンをたべますか」。
ぶたは「たべる」と言いました。
いぬも「たべる」と言いました。
ねこも「たべる」と言いました。
☆
お話はここで終わる。もとはウクライナの民話らしい。
それで教科書的には、それから小さい白いにわとりがどうしたかを、考えましょう、というしくみなのだろう。
さてそれで、これを子どもと読んで、小さい白いにわとりは、それからどうしたと思いますか、ってきいたら、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを分けました」って言った。いい子だなあ。
それでみんながパンを食べたあと、「小さい白いにわとりは、ひとりでお皿を洗いました」ってことになるんだけど、きっと。
小さい白いにわとりは、いろんなことをひとりでしなきゃいけない。
そういうことはたくさんあるし、そういうもんだと思う。
それで、そういうひとりのときに、「小さい白いにわとりは、ひとりで夜道を歩きました」とか、つぶやいてみると、なんとなく、ひとりの私の傍らに、小さい白いにわとりがいてくれるようで心あたたまる。
さらに言うと、傍らにいるのは、人間ではなくて、小さい白いにわとりであることがすてきなのだ。
人間だったら、必ず横で、ぶつぶつ文句を言うにちがいない。おれはそっちに行くのはいやだとか、おまえのやり方はなってないとか。
それできっと、ひとりならできるはずのことまで、できなくなってしまったり、するんだわ。
小さい白いにわとりのような、なんでもない、あたりまえの勇気を、失ってしまう。
それで、ひとりでできないことは、2人いたって、100人いたってできない。何かをしようと思ったら、小さい白いにわとりになって、ひとりでする。
小さい白いにわとりは、たとえばお母さんのよう。
もちろん、私の子どものお母さん、ではなく、私のお母さん。
それで問題は、だ、小さい白いにわとりがいなくなったあと、
ぶたと、いぬと、ねこは、どうやって生きていくでしょう、
ってことだ。
ぶたと、いぬと、ねこ、のような私たちは。
でも私が、このお話を、大好きだったのは、小さい白いにわとりに感動したからではなくて、音読が楽しかったからでした。それは、「いやだ」と大きな声で何度も言えるのが、楽しかったのでした。
でもそれも、小さい白いにわとりが、いたから言えたことだあね。
子ども、お手伝いたのむと「いやだ」って言う。私だって、小学生の頃は(頃だけは)もうすこしお手伝いしたよ、と思うけど、
ま、似たようなもんか。
「小さい白いにわとり」
小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。
「だれがたねをまきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがむぎをかりますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなにひきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました、
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなにひきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがこなをこねますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなをこねました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンにやきますか」。
ぶたは「いやだ」と言いました。
いぬも「いやだ」と言いました。
ねこも「いやだ」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでパンをやきました。
小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
「だれがパンをたべますか」。
ぶたは「たべる」と言いました。
いぬも「たべる」と言いました。
ねこも「たべる」と言いました。
☆
お話はここで終わる。もとはウクライナの民話らしい。
それで教科書的には、それから小さい白いにわとりがどうしたかを、考えましょう、というしくみなのだろう。
さてそれで、これを子どもと読んで、小さい白いにわとりは、それからどうしたと思いますか、ってきいたら、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを分けました」って言った。いい子だなあ。
それでみんながパンを食べたあと、「小さい白いにわとりは、ひとりでお皿を洗いました」ってことになるんだけど、きっと。
小さい白いにわとりは、いろんなことをひとりでしなきゃいけない。
そういうことはたくさんあるし、そういうもんだと思う。
それで、そういうひとりのときに、「小さい白いにわとりは、ひとりで夜道を歩きました」とか、つぶやいてみると、なんとなく、ひとりの私の傍らに、小さい白いにわとりがいてくれるようで心あたたまる。
さらに言うと、傍らにいるのは、人間ではなくて、小さい白いにわとりであることがすてきなのだ。
人間だったら、必ず横で、ぶつぶつ文句を言うにちがいない。おれはそっちに行くのはいやだとか、おまえのやり方はなってないとか。
それできっと、ひとりならできるはずのことまで、できなくなってしまったり、するんだわ。
小さい白いにわとりのような、なんでもない、あたりまえの勇気を、失ってしまう。
それで、ひとりでできないことは、2人いたって、100人いたってできない。何かをしようと思ったら、小さい白いにわとりになって、ひとりでする。
小さい白いにわとりは、たとえばお母さんのよう。
もちろん、私の子どものお母さん、ではなく、私のお母さん。
それで問題は、だ、小さい白いにわとりがいなくなったあと、
ぶたと、いぬと、ねこは、どうやって生きていくでしょう、
ってことだ。
ぶたと、いぬと、ねこ、のような私たちは。
でも私が、このお話を、大好きだったのは、小さい白いにわとりに感動したからではなくて、音読が楽しかったからでした。それは、「いやだ」と大きな声で何度も言えるのが、楽しかったのでした。
でもそれも、小さい白いにわとりが、いたから言えたことだあね。
子ども、お手伝いたのむと「いやだ」って言う。私だって、小学生の頃は(頃だけは)もうすこしお手伝いしたよ、と思うけど、
ま、似たようなもんか。