短歌における当事者性と普遍性 (ES第20号)

同人誌「ES第20号」に山田消児さんが、
「「僕」が「私」であること──短歌における当事者性と普遍性」という文章を書いていて、そのなかで野樹の短歌に触れていた。
私が、その作品によって在日朝鮮人だと思われたこと、でも実際は違うので、日本人だと表明したということ、ということについて、ブログも読んでもらっているし、丁寧にものごとを追っかけてもらっていて、びっくりしたんですけど。とても共感するところの多い、胸のすく思いのする内容でした。

「奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮」という野樹の歌について、次のように。

「この歌に詠まれているのは、歴史や人生のさまざまな局面で人を襲う底知れぬ喪失感やアイデンティティの不安であろう。失うのは祖国とは限らない。文意上も、直前に「たとえば」がついていることからして、「祖国朝鮮」はあくまでも喪失する対象の一例として挙げられているにすぎないと考えるのが理に適っている。つまり、この歌は、「祖国朝鮮」に象徴させて一首の主題である喪失感の切実さを表現しようとしたものだと解釈できる。だが、もしそれだけであれば、論理的には、在日朝鮮人が背負わされた悲しみをあらかじめ理解できている読者に対してしか通用しない歌だということになるだろう。
 しかしながら、この歌は、第四句途中までで呈示した普遍性ある主張に続けて「祖国朝鮮」を置くことで、全ての読者に在日朝鮮人の悲しみを自分のものとして甘受させようとする、前記とは反対方向のベクトルをも持たされている。また、「失う」のではなく「奪われる」としたところからは、作者自身をも含む奪った側、すなわち加害者としての日本人への問いかけが込められていることも読み取れる。こちらの方の指向性をも視野に入れて読んだときに、読者ははじめて一首の本質に触れることが可能になるはずなのである。
 ここでは、在日朝鮮人にとつての祖国喪失という特殊個別的な事例と、何か大切な心のよりどころを失ったときの悲しみという誰もが経験し得る感情が、互いに互いを主題として深め合う構図が成立している。一首はこの両者の相互作用の内部において循環的に完結し、作者が実際に在日朝鮮人であるかどうかに左右されない自立性を獲得し得ているといえる。そのとき、「たとえば」は例示の副詞であることを超えて、一首全体に観念性、象徴性を与え、単なる心情吐露の歌とは一線を画するひとつの物語を立ち上げる重要な機能を果たすことになる。」

たいへんうれしい一首評でした。深く感謝します。それから次のような歌をひいてのくだりも。

「怯えながら犯したんだとわかるから共犯みたいに笑ってあげる」
「生きながら燃やされる子のためにさえ世界は沈黙したままだった」

「被害者も加害者も共犯者も傍観者も、野樹の歌の中では全てが主体となりうるし、それらのどれもが、ただの登場人物ではなく、取りも直さず作者である彼女自身なのだということ‥」

そうそう、と思いました。あのころ短歌を面白いと思ったのは、「私」という一人称を強いられる短歌の、その「私」が被害者と加害者、共犯者と傍観者というような相反するとみえる「私」をひとつの「私」として描くことができる、それから特殊と普遍を一行のなかで同時に表現できると感じたからでした。それが短歌の面白さだと思えて、どきどきしたことなど思い出しました。

この山田さんの文章には、私自身が、そんなものを書いたことをもうすっかり忘れていたあるエッセイのこともとりあげられていて、思わずめまいがした。
1992年というから、ずいぶん前だ。
ひろしまの冬」というタイトルだったらしい。次のような文章。

「帰りたい、としじゅう呟いている。どうやら東京が嫌いらしいのだ。脳裏に浮かぶのは故郷の鬼ヶ城(という名前の山)だったり、広島の川べりの夾竹桃だったり、韓国のポプラ並木だったり。とはいえどこに帰りたいわけでもない。ただ帰りたい心だけある。」

このあと何を書いたかはだいたい見当がつく。「ひろしまの冬」という朝鮮人被爆者をテーマにした舞台で、「帰りたい」という声を上げた在韓被爆者の声をきいて、ショックを受けたことなど、書いているんだろうと思う。

で、今度の歌集の主要なテーマとして、鬼ヶ城とか、広島とか、韓国とか、出てくることを考えると、あのころ東京で、おそらくすこしは精神がおかしくなりはじめたころに、胸のなかにあった小さな悲鳴のようなものが、(あれから何年たったのよ)いまの私にまでつながっていることに、ああ、なんてシンプルな人間だろうかと、すこし笑いたくなったりして。

作品の自立性を考えれば、あとがきもプロフィールも余計なことだという(たぶんそう思っている)山田さんの考えには、まったく同感だけれど、書かないですますということもできないんだなと、『路程記』を出した頃から思っています。
作中の私が、作者の私に結びつけられてしまうとは、そもそも夢にも思わなかったことでしたが、でも実際そのようなことが何度も起こってしまうなら、世間とはそういうものだとわきまえておくべきなんだろうと思っています。そのような世間のありかたが正しいかどうか、好ましいか好ましくないかは、さておいて。

日本人だという弁明を繰り返すことも、あとがきやプロフィールに作者自身について書くことも、そのような世間に対する、私の、なけなしの愛情ではあるんですけど、書くならば書くで、作中のものがたりと、作者というものがたりと、作者と作品のずれというものがたりの3通りのものがたりを、提供できないわけでもない。
というふうなことを、いちいち考えたわけでもないけれど、私の今度の歌集のあとがきはながい。
たぶん、軽蔑されそうなほど、ながいです。