一ヶ月

  ゆめとはいえ

ふるさとにもどればそこはふるさとに似ている廃墟 なにが あった の
夕闇の廃墟に父は 見つからない娘の教科書だけを見つけて
かつてここにあった家もなく人もおらず死んだ祖母が瓦礫を片付けている
地の底から風邪ひきたちの咳きこむ声が夜ごと響く避難所の闇
ひと椀の食事を求める人々の列 千年も二千年もつづく
「この星でしあわせに生きるのはよほど難しいらしい」とこの星のひと
死んだ子がゆさぶられる度ママーママーと人形の声を出す ゆめとはいえ
虚空に青い地球が見えてもう二度とそこにはもどれないとおもった
窓枠ももう消えている窓の向こう、はだかの雲がながれています

 野樹かずみ歌集『もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう』 



本、しばらくめくる勇気がなかったんだけど。
追悼にかえて、書いておきます。

家族がみんな犠牲になって、発見されない。家のあったあたりから、娘が使っていた教科書だけが見つかった、って話していたおじさんのことを思い出します。2000年7月、フィリピンのゴミ山崩落惨事のときに。夕闇の立ち入り禁止のゴミ山の上で。
四川省地震のときに一人息子が潰れた学校で死んで、それを耐えかねて1年後に自殺したという男の話も思い出します。遺された妻はどうしただろう。

もとの世界には戻れない。復旧とか復興という言葉は、苦しくないだろうか。戻れないのに。「新生」という言葉のほうがいい。
復興、などと言い出したら、復興に役立たない、私みたいな怠け者は、いっそう孤立し孤独になる。
がんばれニッポン、などとは死んだって言いたくないと思ってる。
「新生」がいい。
新しく生き始めるということは、何にもなくても、若くても年寄りでも、ただ生があるところからならどこからでも、はじめられる。
そしてたぶん、死も(それぞれの死も)また新しいそれぞれの生に向かっている。



「新生」を願う。私も、もうすこし、ましな人間になりたい。