パンダの赤ちゃん

上野動物園のパンダが赤ちゃんを生んだらしい。すごいな。

中国から最初にやってきたパンダの名前は、カンカンとランランだった。
(それしか覚えてない)
中国からパンダがやってくるという噂が、そのころまだ橋もかかっていない四国のはしっこの、家にテレビもない小学生の耳にも入ってきた。
なぜか、小学校の校庭を竹箒もって掃除していたのを思い出すのだが、たぶん、掃除の時間に、耳にした噂なのかもしれない。
風が吹いて、砂埃が、素足にあたって痛かった。靴下ははかなかったな。素足に運動靴だった。その運動靴に、黄色いにこにこマークがついていたのは、私の運動靴か、別の誰かの運動靴か、つまりそんなものが流行っていた。

パンダのぬいぐるみがほしいって言ってみたら、却下されると思っていたのに、母があっさり買ってくれて、それが私のほしかったデザインと違っていて、どうしていいかわからない気持ちになった。980円だった。
ほしいなんて言うんじゃなかったと思った。無駄なお金を使わせてしまったと思って、いつまでも苦しかった。玩具の類を、親にねだったのは、あとにも先にもあのときだけだった気がする。

なのに私の子どもは。
抱えきれないほどの玩具をもって、それでもいつも何かしら欲しがる。義父母さんもパパもいいかげんにしてほしいが、私なんかの言うこと聞いてくれないし、もう手遅れだ。
かわいそうに。この子どもは、たったひとつのぬいぐるみをめぐって、長く深く葛藤するという体験をもつことができない。

それも宿命だあね。

パンダがやってきた日中国交回復のころ、雑誌か何かで見た中国の小学生たちは、みんな赤いスカーフをしていて、それがとても素敵に見えた。
町の公会堂で「中国物産展」が催されるようになって、百円玉をいくつかもって遊びに行き、粗悪といえば粗悪な、回すと卵がひらいてなかから小鳥が出てくるというような小さな玩具を買ったかな。人形の飾りのついた針山も買った。枕カバーの刺繍に見とれた。干した果実が味見できるのが、楽しみだった。

あのころ。何か楽しいことがはじまるような気がしていた。
なんであんなに、どきどきしていたんだろう。遠くて、見に行くこともできないパンダに。

子ども、パンダの赤ちゃんに関心はないらしい。なのにその子どもに、写真を見せてやろうと思って、古い写真を探したりしてたのだ。
1985年3月。上海。
サーカスで芸をするパンダ。暗くてよく見えないけど、パンダはラッパを吹いている。プワーって鳴ったよ。
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