事前学習会&ドキュメンタリー上映会

来たる10月22日土曜日、広島で、
金時鐘 詩の朗読ライブ「四月よ、遠い日よ。」があります。

http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/2011/09/post-59a3.html


昨日はその事前学習会&ドキュメンタリー上映会。
済州島4・3事件と朝鮮戦争
「戦後の在日朝鮮人について」
講師 崔真碩

会場もそんなに遠くないので、出かけていった。
はじまったのは1時過ぎで、終わったのは7時過ぎ。長丁場だったなあ。

内容書きたいが、手に余るなあ。とりあえず、1948年、島民の9人に1人が犠牲になった済州島の虐殺や、数百万人が死んだ朝鮮戦争に、日本の植民地統治の負の遺産が深く関わっていることを、日本人としては認識しておきたい。
日本統治下で利用された親日派が、解放後は親米派になって戦争と分断に大きな役割を果たしたこと。南北分断の北緯38度線は日本軍17方面軍と関東軍の管轄境界線であったこと、など。

済州島4・3事件のドキュメンタリーも見たのだが、虐殺の様相は凄惨きわまる。逃げ場もない狭い島のなかで。
はじめて見る映像は、でもどこかで見たことのある映像に見える。洞窟から出てくる骨。たとえば、沖縄戦を体験した人は、済州島の虐殺が何かを、瞬時に理解するだろうなあと、思った。

戦後広島から帰国したあと、朝鮮戦争を体験した女性が、畑のなかを逃げ惑っていて、アメリカ軍の爆撃機の兵士と眼があったという、昔聞いた話を思い出した。家族が朝鮮戦争で死んだショックで、アル中になった在日の人の話も。

で、日本は、朝鮮戦争の戦争特需で、戦後復興と経済成長をしていったんだけれども、この戦争の悲惨を思うに、国家とか民族とかイデオロギーとか、そういうことにかかわりなく、加害者であれ、被害者であれ、つきつめれば同じく一個の人間として、私たちは血塗られた歴史の底にいるんだなあ、という思いがなまなましくした。

国家とか民族とかイデオロギーとか、加害者とか、被害者とか、あらゆるところに、断絶や亀裂があって、憎悪があって、「悲惨なものはその同類を憎む」というヴェイユの言葉を思い出したけど、それは結局、権力の巨悪に利用される。たとえばアメリカの世界戦略にも。

でも、人間はどうかして、それらの断絶や憎悪を乗り越えてゆかなければならないし、そのためには、血塗られた歴史を正しく知らなければいけない。そしてたぶん、知るってことは、誰もその血しぶきをまぬがれていないっていう自覚をもつことだ。
きっと、その自覚なしに、自分の幸福を、他人の不幸の上に築いているのは、不幸なことだ。
血ぬられた歴史の底で、ひとりの不幸な個人は、もうひとりの不幸な個人に出会う、この繰り返しからしか、和解とか融和の光は射してこないんじゃないか。

不幸という普遍性。不幸という普遍性のなかに、個の尊厳を見いだすこと。
ヴェイユのいわゆる〈不幸論〉も、釈尊が生老病死を「四苦」としたことも、そのようなまなざしではないだろうか。
そして相手が誰であれ、個の尊厳が見えてこないうちは、何にも知ったことにはならないし、そこにはびこるのは、際限のないレッテル貼りと差別でしかないことはたしかだ。

本題にもどると、簡単に言うと、戦後の朝鮮で、凄惨な虐殺と戦争があったのだ。私たちはそれに関係がある。
朝鮮戦争をはずして現代史は見えてこない。それはベトナムイラクパレスチナにもつながっている。
そして、歴史を知るというのは、権力と戦い続けるということなんだな、ということも、また考えさせられたことだった。歴史を、民衆の視点からつかみなおすということ。私たち自身の手に取り戻すということ。

参考資料
金東椿『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(平凡社 2008年)

それから詩人の金時鐘氏についてのドキュメンタリー番組見た。皇国少年だったこと、済州島の虐殺を逃れて密航してきたこと、在日するということ、などなど。「宿命の日本語」という言葉が印象的だった。

考えてみれば、日本語しか使えないということにおいて、私たちにとっても「宿命の日本語」なんだけれども、あやふやに生きてるよなあ。
必ず滅ぶいのちのはかなさとか、いつか滅ぶかもしれない言語のはかなさとか、それに何を託すべきかとか、思いもせず。



暗くなってきて、家族の晩ご飯はどうしようかと思って、パパに電話したら、町内会長のところでカレー食べてるって言う。帰りに寄って、私もカレー食べさせてもらった。子ども、くつろいで遊んでいた。