民族差別

 昨夜見ていたNHKの番組で、水俣病の患者にずっと関わってきた医師の原田正純さんが取り上げられていた。
「中立というのはあり得ない。強い立場のものと弱い立場のものがあるときに、中立というのは、強い側に立つということになるんです。」ということを言っていた。まったくそうだと思う。

 土曜日に朝鮮高校でもらってきた資料のなかに、高校無償化除外の問題についてのチラシがあるので、書き写します。
 この問題も、中立というのはありえない、と思う。
 どう考えたって、これは民族差別だし、差別される側の味方でなければ、する側の味方だ。



「高校無償化制度 こんな差別は許されない!!」
「ひどすぎる! 高校無償化制度からの朝鮮学校除外」
朝鮮学校だけが「検討」の対象 結論の先送りは不当な差別」 
「朝鮮高校にも差別なく、すみやかに無償化適用を!」
「私たちも同じ高校生です!! 鳩山首相! 会ってください!」

「高校授業料無償化法」が4月1日から施行されましたが、報道などによると文部科学省外国人学校の中で朝鮮学校に通う高校生に限り、専門家らによる「検討の場」で無償化の対象にするかどうかを審査しねその決定を8月ごろまで先送りするとしています。
 都道府県から同じ各種学校の認可を受けた外国人学校の中で、朝鮮学校だけを審査の対象とし決定を先送りすることは、神聖な教育の場に差別を持ち込むことであり、「法の下の平等」をうたった日本国憲法や「教育の機会均等」を定めた教育基本法に違反し、「教育の機会均等などに寄与する」とした「高校無償化」の目的にも真っ向から反する不当な差別であります。

「すみやかな無償化適用に多くの声を!」
朝鮮学校の生徒や保護者の不安は計り知れない」

 そもそも「高校無償化法」に基づく就学支援金の受給者は「生徒」であり、学校は事務処理の便宜上、それを代理受給するにすぎません。
 もし、各種学校の認可を得た外国人学校の中で朝鮮学校のみがこの制度対象から除外されるならば、それによる不利益は朝鮮学校に通う生徒とその保護者がかぶることになります。朝鮮学校の保護者は、納税の義務を果たしているにもかかわらず今後、高校無償化の実施に伴い扶養控除額が引き下げられるため、朝鮮学校が無償化の対象になるまでは、「給付なし、控除なし」の二重の差別的な取り扱いを受ける恐れがあります。

朝鮮学校を除外しないで  (朝鮮学校生の新聞投稿)

 朝鮮学校に通う私たちと、日本の高校に通う生徒たちはそんなに違うものでしょうか? 私たちは大学受験も認められ、親は日本人と同様に納税義務を果たしています。 ……私の家は母子家庭です。正直、生活は苦しいし、母は私と弟をやしなうために死に物狂いで寝ずに働いています。生活苦で苦しんでいるのは、朝鮮人も同じなのです。……高校無償化とは、学びたくても学べない子どものためにあるのではないですか。拉致・核問題があるから駄目というなら、私たちを差別すればそれが解決するのでしょうか。……私たちは自分の民族の文化を学びたいだけです。わかってください。差別のない未来をもとめているだけなのです。(朝日新聞『若い世代』2010年3月7日) 

国連人種差別撤廃委員会が懸念と勧告」
 
 人種差別撤廃委員会は3月16日に発表した「日本政府提出の報告書に対する審査結果」の中で「日本において現在審議中の授業料無償化法案から朝鮮学校を除外するよう提案している一部の政治家たちのアプローチ」について「子どもたちの教育に対して差別的な影響を与える行為として懸念を表明」し、これらを踏まえ教育の機会を差別なく与えるよう日本政府に勧告しました。

アムネスティー・インーナショナルも声明」

 アムネスティー・インターナショナルは人種差別撤廃委員会の勧告を受け、3月19日に発表した声明で「鳩山内閣は第三者機関を設置して教育内容を確認するまで無償化対象に含めないとしているが、政治家からの働きかけによって教育に関わる内容に差別を設けることは、(人種差別撤廃)条約上許される施策ではない。当局はただちに朝鮮学校高級部について高校無償化の対象に含めるべきでる」と指摘しました。

「高校就学支援ホットライン」に私たちの訴えを反映させて下さい!

 文部科学省は高校無償化制度について都道府県の担当者や学校、市民からの質問を受け付ける「高校就学支援ホットライン」を開設した。
 電話番号03-6734-3176
 メール mushouka@mext.go.jp
 時間帯は月~金の午前9時~午後6時

(チラシの発行は)
「高校無償化」適用を願う全国朝鮮高級学校学生の連絡会
 広島朝鮮初中高級学校高級部学生委員会



 そういえば、生徒会長、ほんの数日前も、高校生全員で街頭に立ったのだと言っていた。
 なんで高校生にそんなことをさせなければならないのか。ふだん私、自分が大人であるという意識はほとんどないが、ふと、日本人の大人として、これはものすごく恥ずかしいことだと、思った。
 「まちがっているのは、日本の政府であり、日本人なのに、その被害者の朝鮮学校の人たちに、しかも高校生に、そういうことをさせなければならないのは、とても申し訳ないです」
 と言ったら、生徒会長「だって私たち、当事者ですから」ととても明るく言うのでした。「今まで、チマチョゴリを切られたとか、何かいやがらせをされたとかいうことを、話としては知っていても、直接自分が体験したことはない。それは、先生たち親たちが、本当に守ってくれていたからだと、いまはよくわかる。でも今度、自分たちの問題として、こういうことが起こった。キターっていう感じ。後輩たちのためにも、無償化獲得がんばります」
 ああ、その明るさに救われる。

 当事者、という。でも本当は、差別の当事者は、差別する側である、と思う。そして、そのことを差別する側は、絶対気づかないのだ。
 この問題は、本当は日本と日本人の問題なのだ。もしも無償化が適用されなければ、歴史の誤りをまた積み重ねてしまうという意味において、日本の政府と、その愚かさを許した日本人は、いっそう無惨だろう。

 忙しいなかを、いったい何ものかわからないような、私なんかのために、小さな冊子の取材のために、3時間も時間を割いて、誠実に率直に、応じて下さったことが、ほとんど信じられない思い。それで私が、どれだけ正しく伝えられるかを思うと、かなり不安。
 この不安には、私の理解力、筆力への不安のほかに、日本人の想像力への不信、マスコミの流す情報だけを無批判に受け入れているぺらぺらの想像力への不信、もあると思った。
 だいたい、私自身が想像力のない人間で、自分が直接体験したことしかわからない。だからせめて、現場に自分を運ぶよりしょうがないんだが。

 それでも、いかに想像力がないにしても、私たち日本人が、この国のマジョリティであるというだけの理由で、あたりまえに享受している権利のひとつひとつが、マイノリティであるというだけの理由で、在日朝鮮人に奪われていたということ、いるということ、いままた子どもたちには何の関わりもないことで、当然与えられるべき権利が不当に奪われているということ、そのことに対して、無知で無関心であるということは、私にはおそろしく思われる。



 思い出したので書いておきます。「李珍宇全書簡集」にあった編者の朴寿南の言葉。50年ほども前に書かれたものだけれど。

「しかし、わたしは、いま、このくにに居り、選択として、このくにに在るものなのだ。これは、仮りの滞在ではない。
 わたしがいま、身を置き、住んでいるこのくには、また、わたしのものなのである。この土地が決して、このくにの人だけのものでないように、このくにもまた、かれらだけのものではない──。
 いま、問われるのは、どのような存在として、生き、このくにをわがものにするか、であろう。
『日本人でもない』『朝鮮人でもない』ものならば、わたしたちは『日本人』でもあり『朝鮮人』でもあるその存在の二重性を生きること、その矛盾と葛藤を不断に生き抜くことによって、あたらしい存在としての、もうひとりの日本人としての自己を実現することができよう。
 あるいは、もうひとりの朝鮮人として──。
 おそらく、わたしたちは、いまだ名づけられていないあたらしい存在を生むものであろう──と。」

 ということで、パンチョさん、書く予定の原稿、「日本の子どもたち」の章に入れるので正しいと思います。