学校は、子どもたちが尊厳を与えられる場所

うん、まあそれは、留学生から聞いてはいたんだけど。
レティ先生の息子のジェイからのメールが届いて、こちらは給食費がないという。
By the way, support for feeding program from Singapore already stopped, so I am now looking for other sponsors.

子どもたちの給食費、今までシンガポールのグループが支援してくれていたんだけど、その約束の期限が過ぎた、ということなのだ。(実はもうとっくに過ぎているのを、無理して続けてくれていたらしい)。それで今年度からの給食費をどう工面するか、という問題があるんだった。

朝ごはんを家で食べられなくて、給食を楽しみに学校にやってくる子どもたちもいて、それを励みに勉強を続けることもできているので、なんとか続けたい。

給食をはじめる以前は、教室に何人かは、いかにも食べてないな、という青い顔をした子がいたことを思い出す。それが給食を始めると、それまでだるそうにすわっているだけだった男の子が、いきなり元気になってアルファベットを覚えた、とレティ先生が手紙をくれたことも思い出す。

んー、出てこい、給食費



昨日の午後は、朝鮮学校へ。取材の申し込みにこころよく応じてくださった。
元先生をされていた呂さんが、学校の草創のころからの苦労をずっと話してくださる。李校長先生や生徒会長さんからも、いろいろとお話を聞く。
もしも、私、パアララン・パンタオの支援に関わっていなかったら、同胞の子弟の教育のために尽くしてきた朝鮮学校の先生たち、保護者たちの、本当に血のにじむような努力を、きっと全然理解できなかったかもしれない。話を聞かされても、やっぱりわからないかもしれない。
自分の生活を犠牲にして、まったく無給のままで、地域の子どもたちのために尽くしてきたレティ先生の姿を間近に見ていなかったら。
そんな生き方が可能だと、想像することもできなかったかもしれない。
先生たちの愛情も、そこで学ぶ生徒たちの喜びも、わからないかもしれない。
自分たちで学校をつくりあげていく、という主体的な気持ちも、その誇りも。わからないままだったかもしれない。
本の学校しか知らなかったとしたら。

きっとわからないままだから、無償化除外などというばかなことができるのだ。子どもたちのために尽くす、という生き方を、本当にはしていないから。
無償化除外の措置は、どんな理由をつけたって、朝鮮学校の子どもたちのことを大事に思っていない、ということだもん。

「学校の自慢はなんでしょう」ときいたら、「すべてです」とためらいなく校長先生は言われました。
ふと、泣けてきそうになった。私は生徒たちを羨ましかったです。

校長先生が「私よりしっかりしている」と紹介してくれた生徒会長の女の子、ほんとにめちゃめちゃしっかりした女の子だった。
生徒会長の言葉のすきまからこぼれる、先輩への尊敬や後輩への愛情、先生や仲間たちとの絆、今回の無償化の問題に対する自発的な取り組みのすがすがしさ。自分のために、ではないのだ、自分たちは間に合わないかも知れなくても、後輩たちのために、と言うのである。
パアララン・パンタオの支援も、若い人たちに自発的に支えてもらっているんだけど、もしも彼らがいてくれなかったら、若い人たちが他者のために働くことができるなんて、私は想像もつかないかもしれない。
だって、私自身は、そのような学生ではなかったから。
もしも、私が、自分の学生時代しか知らなかったとしたら。それ以外の尺度を持たなかったとしたら。生徒会長の気持ちはわからないかもしれない。

翻って、まったく何かを欠落させたままの、日本の教育だろうと思う。
それとも私だけが欠落させていて、その欠落の埋め合わせができるように、何らかの恩寵が働いて、パアララン・パンタオと出会ったり、いままた朝鮮学校を訪問したり、することができているのだろうか。

それにしても、すみやかに、すっきりと、正しい方向に決着させてほしい。高校無償化。無償化除外が民族差別だということに、もしも日本人が気づかないとしたら、それはもう、呂さんに、こんなに間違った政治や教育で、日本人はほんとうにかわいそうですよ、と言われてもしょうがない。たしかにかわいそうと思う。こんなにエゴイスティックな社会で、みんなぼろぼろに疲れて。

パアララン・パンタオのレティ先生は、「学校は、子どもたちが尊厳を与えられる場所」と言う。
「人間教育」と李校長先生は言われるのですが、民族教育の根幹もまた、そこにあるのだと、肌で感じられて、そして子どもたちが、そのように大事にされているということが、なんというか、自分ごとのように、そう自分ごとのように、うれしい。

気がつくと3時間も経っていた…。カムサハムニダ