ボヘミアン・ラプソディー

三者面談。息子言うところの、申し訳ありませんの成績表、などもらいにゆく。
それがもう、すっかり高校の進路指導みたいな空気だった……。数学が、のきなみB評価みたいなことになって、担任が数学なので「数学、ケアレスミスしてる場合じゃないよ」って、「英語はいい点みたいだけど、このテストは簡単だからね。英作文が減点多いし弱いよね。対策しないとね」って、ああ、こわい、、、。
いやいや中学生が数 Iとか高校課程のテスト受けてたり、大学受験の進路希望書かされてるのが、おそろしいわ。
私には、幼稚園の教室を脱走していた姿が強烈に残っているんだけど、それが毎日、学校に楽しく通えて、友だちもいて、そこそこ優等生のふりもできているというのは、驚きの成長なので、もっとほめてほしいんですけど、とちょっと思った、ので、もっとほめてあげよう。

私、中3のいまごろって、卒業したら、歩いていける近くの高校に進学するんだろうなあ、ということぐらいしか、考えてなかった。友だちと離れることとか、夕焼けがきれいなこととかが、せつなかった記憶がぼんやり。進路なんてどう考えればいいかもわからなかったし、むしろ、大人になんかなるもんかと、かたくなに思っていた頃なわけだけど。

まあいいや。
ということで、そのあと、気分転換に息子と映画観に行った。「ボヘミアン・ラプソディー」。
80年代半ば、友人の誰かが、私の下宿に、この曲を運んできたっけ。その頃は音だけ。英語の歌詞を、辞書ひきながら訳した記憶がある。

息子とポップコーン食べながら見た。
帰りにLGBTの話する。彼は身近に知らないから、とまどっていた。

辞書的には、「Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)」の頭文字で、セクシュアル・マイノリティなんだけど。

どう言えばいいかなあ。私は、フィリピンにゲイの友人が3人いて、2人は亡くなってしまっているんだけど、亡くなった1人は、ストリートチルドレンを助ける仕事をしていて、パアラランのことも助けてくれて、みんなにとても尊敬されていた。亡くなったもう1人は、美容師で、私はいつも髪を切ってもらってた。もう1人は、若くてきれいなお兄さんで、日本語がすこしできる。恋人が日本人なんだって。「わたしはおかまです」って自己紹介してくれたよ。そういうことが自然にあたりまえに言えるから、フィリピンっていい国だなと思う。
たとえば、発達障害は、少数者(マイノリティー)だけど、それはそれで、多様性の世界でしょ。それで、たとえばASD自閉スペクトラム症)とかADHD注意欠陥多動性障害)とか LD(学習障害)とか、特殊な呼び方がされるとしても、自分にとっては、自分があたりまえでしょ。
それで、こいつ仲間かも、っていうのは、なんとなくわかったりするでしょ?
そういうことだと思うよ。

夜、お布団に寝転んで、クイーンのCD一緒に聞いた。いい時間でした。

 

 

堕落論

息子のカバンのぐちゃぐちゃのなかから、でてきた本は、坂口安吾の「堕落論」で、面白かったって言う。
何か本ない?というから、その昔、高校生の頃に読んで好きだった本を出してやったなかの一冊。これまで読んだなかでは、太宰治の「人間失格」と「斜陽」、三島由紀夫の「仮面の告白」が面白かったそうだ。

いずれも、かれこれ50年ほど前の古本の文庫本。紙は黄ばんで、字は小さくて、私はもう読めないし、古本屋にも売れないから、捨てるつもりでいたのが、たまにこうして息子が読むので、捨てないでいるんだけど、破れたカバーをテープで修繕しながら読んでいるのが、いじらしくもあるけど。

面白いと言われて、不安だ。そんな本、読まなくていいんだよ、という気持ちもすごくある。人生難しくなるから、ほんと、読まなくていいよ、と自分が渡しておきながら、複雑な気持ちだ。
息子、そんなに本読む子ではないと思うんだけど、それで、読み通したというのは、文章の魅力というか魔力というか、なのだろう。やっぱり。

その作家たちのことを、「あぶない人たちだよね」と言う。ほんとね。

カバンからぐちゃぐちゃでてきたのは、さらに、三者懇談の順番表。夜があけたら、私も行かなきゃいけないんですけど。
同級生たちの名前がずらっと並んでいて、それを見て息子、「問題のありそうな人のあとは、ひとり分あけてある」と言う。ということは1時間コースだったりするわけか。ひええ。

では、もしきみが先生だったら、どんなふうに言うの?と聞いてみたら、
「学校に来れる?」とか、「勉強もっとがんばって」とか、優等生のかたは「申し分ありません」とか。

「ああ、この人は、発言があぶない」と息子が言う女子は、以前PTAの集まりのときに、娘とのバトルが大変だと嘆いていたお母さんがふたりいた、そのうちのひとり。
なかなか、母と娘って、大変だなあとそのとき思ったことでしたが。
「どんなふうにあぶないの? 私なんかいなくていいんだ、とか、もう死にたい、とか、そんな感じ?」
ときいたら、「その通り」らしいけど、まあ、そんなもんよね。

昔、幼馴染の1歳年上の女の子が、2軒隣で、親変わりの叔母さんと喧嘩するのが、けたたましくて、ずいぶん離れたところまで、その叫び声が聞こえたのを思い出す。私は母とは喧嘩しなかったけど(いろいろ大変そうで気の毒で)、弟とは、掴み合いの、噛んだり引っ掻いたりの喧嘩をしていて、それはそれで近所で有名だったらしい。する子はするのだ。

で、最後の最後に自分の名前を指さして、
「申し訳ありません」と言うのがおかしかった。

まわりは高校受験の季節だ。息子たちはそのまま上にあがるけど、クラスの選抜がある。一応希望を出す(希望が通るとは限らない)のに、すごく悩んでいたけど、どういうふうに決めてもはんこは押してあげるよ、と言ったまま、私ははんこを押すのを忘れていたんだけど。
その話もあるんだろうなあ。


とりあえず、クリスマスのケーキの写真。ホットケーキミックスと、畑のいちごとブルーベリー冷凍しといたやつで。

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草に寝て…

冬休みになった。学校からあれこれ持って帰った荷物がぐちゃぐちゃで、整理できてないもんだから、宿題のワークブックがないとか、プリントがないとか、ぐちゃぐちゃ探していたりする。

国語の教科書(すでに高校の教科書)も持って帰っているので見ていたら、「そういえば、立原道造の詩が読みたいんだけど」と言う。どんな詩?「しあわせとか、小さな村とかが出てくる詩」。それは道造の詩にはたくさん出てくるが。
詩集を渡したら自分で見つけた。「草に寝て」という詩だったらしい。たぶん、以前に、中学入試の問題集か、模擬試験かで読んだのだと思う。


教科書の詩は中也だったが「中原中也宮沢賢治の詩も好きだ。詩集ある?」と言う。それならそれぞれ3冊ぐらいはもっているので、机に積んでやる。

息子、3歳の頃、読んだ絵本をまるごと暗記して暗唱するのが、アンパンマンの話だったりして、それを聞くのがうっとうしいので、「雨ニモマケズ」を教えてやったら、お風呂で数を数えるかわりに暗唱していたこととか、思い出した。「キツネのこどもはうそつくな」という文も教えたんだが、いまはしっかりうそつきだ。

同じ頃、中也の「汚れつちまつたかなしみに」は教えたつもりもないのに覚えて、それを「汚れっちまったたのしみに」と言い換えていた。かなしみ、という言葉がわからなかったのか、かなしみ、と言いたくなかったか、言うのがこわかったか、は不明だが、かなしみ、とは絶対に言わなかった、そんなことを思い出した。

高校のときに私が好きだった中也の詩は「夏」だった。ママはこの詩が好きだったよ、と教えてやったら、読んで「あぶない人だなあ」と言われたわ。
  「血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ…」ああ、なつかしい。


中学3年の頃、友だちが、自分の好きな詩をノートの最初のページに書いていて、私も真似した。授業中、きらいな教科のときなんかでも、ノートの最初のページには好きな詩がある、と思ったら楽しかった、という話をしたら、息子「それはいい」と、さっそく新しいノートの1ページ目に書いていた。「草に寝て… 立原道造
 ………
 私たちの 心は あたたかだつた
 山は 優しく 陽にてらされてゐた
 希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた

 

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仮名遣いは、旧かなならその通りに書くこと、一字あきも正確に、せめて読みやすい丁寧な字で書くこと、翻訳のときは、訳者の名前も書くこと、とわりとうるさく言った。


「ママはいいなあ。そういう友だちがいて」と言うが、いや、夢野久作の「ドグラマグラ」を読むという、きみの友だちもたいしたもんだと思うよ?

中学3年の私が、一番最初に、たぶん数学のノートの最初のページに書き写した詩が、丸山薫の「病める庭園」という詩だったことは、内緒だ。

鳥がきて「オトウサンナンカキリコロセ、オカアサンナンカキリコロセ」と鳴く詩。

 

 

連弾

合唱祭。午後から学校に行ってきた。
合唱祭の練習について、12月7日の息子の「くだらないニュース」ノートには、次のようにある。

「3-3における音楽の授業において、「自分の担当するクラスの中で一番ひどい出来だ」と、見かねた担当の教諭が厳しく指導をおこなった。これに関し自分は「確かにどうしようもないぐらいなので諦めたい気持ちもあるが、それでは伴奏が報われない。今後の巻き返しに期待したい」と話す。またS氏は「教諭が神経質なだけ。我々に落ち度はない」と抗議する意向を示したようだが、S氏の歌の状態からして、不可能であるとの見方が強い」

息子がうさばらしにつけはじめた「くだらないニュース」ノート。これで毎日が楽しくなるなあ、と言っていたけど、なんのことない、3日で終わってる。

合唱祭は、いろいろと面白かった。楽しませてもらった。いつも息子と一緒に電車を追っかけている先輩が司会をしていた。
3年4年が縦割りで、息子の団の指揮者は、部活の先輩なのだが、めったに話さないというか、極端に寡黙な人らしく、声を聞いたことがない、と息子は言うのだが、(以前息子に、電車の「優先座席」のシールをプレゼントしてくれた先輩。そのときも、黙って渡してくれたらしい)ああこの人が、きみと黙ってやりとりするという先輩ですか、と思いながら見ていたんだけど、もっとも印象的な指揮だった。とても生真面目なのに、やる気がないようにしか見えない、そして、実際たよりないのだが、そのたよりなさを受け入れている団の空気感は、ほのぼのしている。

ピアノ伴奏は、息子と背中ちゃんの連弾。連弾用の楽譜はなかったので、自分たちで勝手にアレンジした。楽譜からはずれると減点の対象になるらしいよ、という噂もあったらしいのだが、真偽はわからないし、無視。アレンジした楽譜は、ふたりの頭のなかにしかない。
でもピアノは、控えめに言っても、息子たちのが一番よかった。連弾でやると決めたときから、こっそり企んできたことは、そこそこ表現できたんじゃないでしょうか。


さて合唱は、途中はさておき、最後のラララは、気持ちよかった。あのラララで、雨もようのなか、出かけていってよかったと思ったわ。
賞は、ない。
音楽の先生が講評で、全部の合唱をそれなりにほめていたんだけれども、息子たちの団のは、生徒の合唱ではなくて、曲の仕組みをほめていた……。

で、終わったあと、クラスの男子たち「誰がはずしたんだ」と言いあっていたのを、洪水ちゃんが「誰かが悪いんじゃなくて、みんなが悪いのよ」とまとめた。

息子、背中ちゃんの影で、見えないところで、精一杯がんばっていたようで、「ものすごく疲れた」と帰ってきた。いやいや、なかなかいい合唱でしたよ。

曲はレミオロメン「3月9日」。(この、レミオロメンのカタカナの並ぶ順番が覚えられなくて)

♪瞳を閉じればあなたが、まぶたの裏にいることで、どれほど強くなれたでしょう。あなたにとってわたしも、そうでありたい♪

明後日から冬休み…。週明けに3者面談…。…。…。…。

紅まどんな

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来た!紅まどんな。
兄が送ってくれたのが届いた。数えたら51個ある。半分、義父母さんとこにもっていくんだけど。ふるえる。さっそく2つ食べた。おいしい。
こないだ、そごうで見たら、紅まどんな、12個入り8000円(大玉は9000円)+税だった。高級みかんなのだ。

さすがに地元の青果市場でそんなにしないだろうが、教えてくれないけど、安くはないはずで、昔っから、兄のこういうときの気前の良さは、すごいなあと思う。私は絶対真似できない。
で、日頃は、金のやりくりできなくて、病院に行く金がないとか言っている。

まあとにかく、1個750円とか800円とかするらしい、高級みかんをぱくぱく食べているのだ。ありえない。
今年、みかん農家は豪雨でひどい目にあったので、すこしは復興の役に立つのかな。ぱくぱく食べる。


数日前は、街に降りて、友だちと、牡蠣食べた。各種牡蠣料理食べた。
息子が、牡蠣もだけど、貝の類、蟹やエビの甲殻類、いっさい食べないので、わが家の食卓に牡蠣はのらない。
たくさん食べた。幸せだった。

豪雨で寸断していた呉線が全線開通したらしく、昨日息子は、オタクな先輩や同級生たちと、呉線に乗りに行った。ビデオ撮ったり、旗振ったりしたらしい。
息子が車窓から撮った映像を見たんだけど、土砂崩れの跡とか、黒い土嚢が積み上げてあったりとか、被災の傷跡は生々しかった。

車窓からの街並みの映像えんえんと見せられても、私は退屈だけれども、100年後に見るとしたら、昔はこんなだったんだー、とか面白いかもね。

 

 

2019カレンダー

今年もそろそろ終わります。1年間たいへんありがとうございました。パアララン・パンタオの友人のみなさまには、ご支援まことにありがとうございます。
さて、パアラランの子どもたちの絵で来年のカレンダー(A4コピー用紙3枚)つくりました。来年初めころまでに寄付くださった方にお送りします。

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去年から、パアラランは、これまで受け入れることのできなかった3歳児からの幼児教育に取り組めるようになり、教育の裾野を広げることに貢献しています。
パアララン・パンタオという学校がよりどころになって、地域もよりよいコミュニティーへと成長しています。

パアラランの先生たち(以前は生徒たち)は、最近は毎年のように、教員採用試験にパスして、学校の先生になっています。(今年もパスしました。リサ先生おめでとう)パアラランは、若い人たちの就職、教職のためのステップとしての役割も果たしています。

パアラランの運営は、わたしたちからの寄付でなりたっています。今年度は、とても厳しくて(3月に会計報告いたしますが、昨年までと比べて大きく減っています)、現場では教師の数を減らして、奨学生のボランティアにお願いしたり、工夫に工夫を重ねてやりくりしていますが、たいへんしんどい状況になっています。

貧困地域の子どもたちの、学びの最初のステップのために、パアララン・パンタオは、とても大切な学校です。私たちが学べることもたくさんあると思います。助けていただけると、うれしいです。どうか、よろしくお願いいたします。

郵便振替 番号00110-9-579521
     名称 パヤタス・オープンメンバー 

 ホームページはこちら→パアララン・パンタオ

 

ショボーン

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修学旅行から帰ってきた息子のお土産は、これ。秋葉原で買ったんだって。
おいしかったです。バナナチョコ大福。
自分のために買ったのは、これ。

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一緒の班の男の子たちは「お人形さん」を買ってたらしい。お店3軒ほどまわって、東京自由行動は終わり。
カメラ禁止だったし、福島の研修施設では建物のなかで英語のレッスンだったわけだから、お土産話もとくにないのよね。「猪苗代湖ぐらい見たかったよ」とぼやいてはいた。でもレッスンは楽しかったらしい。
福島から発送した荷物が届く。荷物のなかにお土産の紅茶がひとつ。

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あとは行き帰りの新幹線で食べるために買った駅弁の包装紙(これ大切)。

それで一日休みで、今日から通常授業。
午後、バス会社から電話がかかってくる。息子、補助バッグをバスのなかに忘れたらしい。それで学校から会社に電話して、探してもらったらしい。近くの営業所で預かってくれているらしい。取りに行ってやらなければ。
そういえば。小学校の初めころ、登下校でバスに乗るんだけど、手荷物をしじゅうバスのなかに忘れてくるので、あっちこっち取りに行ったし、とうとう手荷物すべて、ランドセルに太い輪っかつけて、それにぶらさげるようにしたんだった。
バスのなかに忘れものって、もうずっとなかったんだけどな。
自分でバス会社に連絡したのは立派。成長したよね。

今日あたり、修学旅行前の定期考査の答案がかえってくるだろうから、
ショボーンの顔だろうな。