誤解のゆくえ

気づけば庭はサツキやつつじが花盛り。
どうしましょうね。こんなに月日が速く過ぎて。Cimg7636




いまのところ、私には、息子はわかりやすい。いまのところかもしれないが。やさしさもすなおさも。あれこれの企みも嘘のつきかたも。奇妙なこだわりも、不機嫌も。なので、自分をコミュ障と思っているらしい息子が不思議なのだが、(いや、だって私には、一番コミュニケーションしやすい相手ですよ、きみが。)
たまに、ほかの人たちとやりとりしている(できないでいる)様子を見たら、対応の仕方がわからなくて困惑すると彼はいっそう不機嫌そうに見えるのだが、
なるほどなあと、まあまあ納得した。
まわりの大人も子どもも、相当にへんなのだから、きみの側だけの問題でもないんだけれども、相手が見えてきて、伝わっていることいないこと、伝えること伝えないことがわかるには、まだ時間がかかるよね。

というようなことを考えていて、いきなり思い出した。なぜ怒らせたか、なぜ罵られたか、謎のままの過去の景色が私にはいくつもあるんだけど、そういえば、私は話さなかったかもしれない、相手がわかるようには、自分の事情とか自分の気持ちとか、と気づいた。
(だってそれは自分には自明のことだし、そして多分、そういうとき相手は聞く耳をもってないし。)
そこで、どんなふうに言葉が足りなくて、あるいは言葉を間違って、どんなふうに誤解が生じたのかということを、ふいに他人の物語のように理解した。でも、そんなことが、いまさらわかってもさ。

理解されたかったでしょうか。
もしはじめから、自分がアスペルガーとか自閉症とかわかっていたらどうだったでしょうか。感覚の違い、認識のずれ、暗黙の了解の理解できなさとか、そういうことが自覚できていたり、理解されていたとしたらどうだったでしょうか。
考えてみる。何かは変わったかもしれないし、何かは変わらなかったかもしれないけれど、
いずれにせよ誤解はぼこぼこ生じるに違いないんだけど。
誤解のゆくえを決定するのは、でも、突き詰めれば、愛かエゴか、利己か利他か、そういうことの気がする。

無理でしょう。利己の霧のなかにいる間はなんにしても。