星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

空き地の水たまり

カズオ・イシグロノーベル文学賞。うれしい。知人でもなんでもないけど、本は読んだので、親しい人の気がする。
勝手にそんなことを思えるのだから、読者でいるっていうのは楽しいことだ。

最初に読んだのは「わたしを離さないで」。出版されてすぐぐらいだから、もう10年以上前か。衝撃的だったし面白かったので、ひきつづき読んだ。「わたしたちが孤児だったころ」「遠い山なみの光」…。あと「日の名残り」が手もとにあるけど、これは、まだ読んでない。
これから読める本があるっていうのもうれしい。

内容は、あんまりはっきり覚えてないんだけど「遠い山なみの光」のなかに、空き地の水たまりの場面がなかったかしら。
水たまりがないとしても、空き地が出てきたと思う。小さな空き地があって、水たまりがあって、っていう光景が、本を読んだ印象として残っていて、
それは、私自身の子どもの頃の風景のなかにあった空き地の水たまりを思い出させた。
というか、私を、その空き地に運んでいった。

それで、短歌書いたのだった。私の空き地の話。

    緑の顔
 帰り道の空き地でおしっこするときは草がつんつん尻にあたった
 空き地まで空き地の向こうまで何度捨てにいってもついてきた犬
 犬のように空き地の水溜まりの水を飲んでみたざらざらの泥みず
 泥の道を裸足で歩く生きられるだろうか野良犬みたいにわたしも
 道ばたの草食べてみる にがい草・にがい草・にがい草ばかりだ
 友だちはいないと思うスカートにもぐってきたがる犬がいるだけ
 死んだ子のほかには知らない わたしが死んだ子の友だちだったこと
 死んだ子に返しにゆこう駄菓子屋で借りた十円玉のいくつか
    (「もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう」)

カズオ・イシグロのなかに保存されていた日本は、彼が日本を離れたから、覚えていて思い出すことのできた光景だったと思う。そういうことはあるような気がする。

たとえば、須賀敦子のエッセイが好きだけど、彼女の文章のたたずまいは、彼女がイタリアに行っていたから、つまり、日本にいなかったから(その間の日本の変化にさらされなかったから)守ることができた日本語のたたずまいであるように思える。

たとえば、私はゴミ山の子どもたちの姿を、覚えている。いま25歳や30歳の人たちが、5歳や10歳だったときの姿を覚えている。たぶんそれは、私がずっとそこで一緒にいたわけではないからなのだ。
ずっと一緒にいた息子の、赤ちゃんや5歳の頃のことは、かえって覚えていない。たぶん日ごとに忘れていかないと、日ごとの変化に対応できないからなんだと思う。

そこにいなければ、一緒にいなければ、日ごとに忘れていく必要がないから、ずっと覚えていられる、そういうことなのかもしれない。
その光景のなかにいないから、ずっと、その光景のなかにいられる、というパラドックス

私は私の水たまりを書くことができて、すこし満足だった。
思い出させてくれたのが、「遠い山なみの光」だった。

今年の春、長崎に行ったので、また読み直してみようかなあ。
本のなかの空き地は、本当はどんなだったかしら。水たまりはあったかしら。本当に空き地はあったかしら。

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空き地の畑のコスモス