「ガラス窓と心」

「ガラス窓と心」 金起林(キムギリム)

なあ──
ぼくの心はガラスなんだろうか、冬空さながら
こんな小さい吐息にもすぐ曇ってしまうなんて……

さわれば銑鉄(ずく)のように堅い素振りだけど
ひと晩の霜にもあえなく罅(ひび)入ってしまうのだ。
吹雪く日は声ふるわせて泣き
夜が退いていったあとは頬いっぱい涙が凝(こご)る。

燃えない情熱、こうもりたちの灯台
夜ごと飛び去る星ぼしたちが羨(とも)しくて仰いで明かす。

なあ──
ぼくの心はガラスなんだろうか、
月の光にさえこのようにも砕けてしまうなんて……

  金時鐘 訳
 
金起林(キムギリム)1908年咸鏡北道鶴城生まれ。本名は金寅孫。渡日して日大専門部文学芸術科卒業(30年)、帰国後、朝鮮日報記者を勤めながら1933年に「九人会」に参加、モダニズム傾向の詩を創作。再渡日し、東北大英文科で学ぶ。卒業後、再び朝鮮日報の記者に。解放後、ソウルで「朝鮮文学家同盟」に入り活躍。朝鮮戦争時に越北。消息不明。


はじめてこの詩を読んだのは、岩波文庫「朝鮮詩集 金素雲編訳」のはずだが、記憶にない。金時鐘の「再訳 朝鮮詩集」で、心に入ってきた。

窓ガラス。
故郷の家は、サッシなんてなくて、風が吹くと窓ガラスはびりびり震えた。夏にはその窓をヤモリが2匹這ってゆく。ベムとベラとか、ルリとリリとか、名付けていたりした。

高校生のときに同級生たちと同人誌をつくって、その誌名が「硝子」だった、そういえば。死んだくーやんが、会社のコピー機を使わせてくれたけど、コピー機なんてはじめて使ったから、紙づまりだったのかな、とにかく壊して、修理にきてもらうはめになったんだった。
2号ぐらいで消滅したけど、もう残ってないけど、何書いたんだろう。家では父とけんかし、学校では教師とけんかしていた頃だから、大人がえらそうに物言うな、ほっといてくれ、と、たぶんそんなことを書いていた。受け入れたら、壊れると思った。言葉がみつからないことに歯がみしていた、16歳のノリメタンヘレ。
ボードレールの「巴里の憂鬱」みたいな散文詩が書けるといいなと、憧れていた。そういえば。「巴里の憂鬱」のなかに「窓」の話があって、私はそれがすごく好きだった。

窓ガラス。
大草原の小さな家」のシリーズのどれかに、父さんが、町からガラスを買ってくる場面がある。そのガラスを窓に入れる。ローラたちがどきどきしてそれを見ている。こんなにきれいなものがあるなんて。

14年ほど前、ゴミの山に滞在したとき、雨期で雨ばかりふって、麓のスラムは、ぬかるみもゴミの匂いもすごいのだったけれど、ゴミ拾う人たちの光景が、ふいにたまらなく陰惨なものに見えてきたりもして、ああ、それからお金もなくて、滅入っていた。
滞在中のある日、レティ先生の娘に孫が生まれたので、会いに行くことになり、レティ先生と、7歳のグレースと一緒に、カビテまで行った。娘の夫は軍人で、軍の官舎に住んでいた。客室があり、ベッドでグレースととびはねたりして遊んだが、窓のガラス(サッシではない)を見たとき、ふいに泣きそうになった。ああ、この世にこんなにきれいなものがあるなんて。
パヤタスに、ゴミの山の麓の集落に、ガラス窓はなかったな、と気づいた。家々の窓には、小麦の袋や布きれがぶらさがっているだけだし、学校もそのころは、木製のブラインドで、採光が悪くて、昼間でも電気が必要だった。停電の雨の日は、昼間でもろうそくを灯して、勉強していた。ゴミのなかのガラス破片で手や足を傷つけた子どもはたくさんいるだろうが、ガラス窓を知らない子どもも、いるかもしれなかった。

灯りをにじませた夜の窓ガラス。それから一夜あけて、太陽の光にいっそう透きとおった朝の窓ガラス。
こんなにきれいなものがあるなんて。