短歌 ベルリンと寿生活館

ベルリン短歌会の方たちが、ベルリンで、3・11の追悼の催しを、3月24日にもったらしいです。写真見せてもらいましたが、落ち着いたいい雰囲気の建物と人々の様子でした。お琴の演奏や歌、短歌、俳句など。
そいで、野樹の短歌3首もドイツ語訳されて読まれたそうです。
ドイツ語知らないので、見当もつかないのですが。

 ひと椀の食事を求める人々の列 千年も二千年もつづく 
 ふるさとにもどればそこはふるさとに似ている廃墟 なにが あった の
 海の上をあるいて帰ってくるだろうか波のように白いひつじをつれて

わざわざご連絡いただき、ありがとうございます。



短歌、が、外国語になる、というシーンは想像したことがないな、と思った。俳句は外国語になっているし、外国語の俳句もある。
ユーゴスラビアの詩人が、内戦のさなかで書いた俳句を読んで、衝撃を受けた記憶もある。
が、短歌。俳句と詩があればそれでことは足りるような気がしていて、考えたこともない、そういえば。
どんな短歌がどの言語で翻訳されて、どう読まれてるのか、全然知らない。
石川啄木は韓国語訳とか、されてるのかな。
斎藤茂吉が中国語になるとか。たたかひは上海に起り居たりけり…。

外国語の短歌って、どんなふうになるんだろう。



図書館で目にした「ホームレス歌人がいた冬」という本。ぱらぱら見てたら、著者は、ホームレス歌人公田耕一さんを探して、横浜の寿町あたりを歩き回っている。見つからないんだけど。

その本のなかに「寿生活館」のことが出てて、なつかしくて読みふけってしまった。
1995年頃かな、その頃、何度か、その建物のなかで週に一度開かれていた、寿識字学校に通ったことがある。
あれは不思議な空間、とても鮮烈な体験だったのでしたが、通ってくる在日朝鮮人のおばさんたちや、ドヤのおじさんたちに、言いようのない慕わしさを感じながら、通い続けられなかったのは、電車代がないのと、体がしんどいのと、毎週作文書くのがつらかったせいと、識字教育の卒論を書くという学生に、でもひとりで行くの不安だからついてきてって、頼まれたんだけど、学生がつきそいがいらなくなると、私には行く理由がなくなったからなんだけれども。

その識字学校で、最初の日に、隣にすわったおじさんが、いきなり紙に、短歌を書いて、私の前につきだしたのを、ふいに思い出した。
その紙をもらって帰ったのか帰らなかったのか、別の紙に書きとめたか書きとめなかったのか、なんにも記憶がない。その短歌について、おじさんは何か話したのか話さなかったのか。
おじさんが書いたことの内容を、なんにも思い出せないのが、とても残念な気がする。

尋ねてゆけるならゆきたいけれど、もう大沢先生も亡くなって、閉鎖されてしまったらしい。寿識字学校。