永き日の記憶のために  ミドリツキノワ

さて何から書こうか。旅の話。
5泊のうち、3泊まで夜行バスの車中泊だった。ああもう若くない。体痛いや。
オルハン・パムクの『新しい人生』は、夜行バスの旅をする若者の話で、旅をして、でもどこに行き着くわけでもないのだ。強いられた近代の、見失ったままの自分自身の、あれは苦しい話なんだけど。

旅への憧れ、と外国の詩に出てきた言葉が美しく見えた、のは中学生の頃かな。いまは、移動への欲望とか、家出の願望とか、そんなところ。



日曜日。長岡京で、やすたけまりさんの歌集『ミドリツキノワ』の読書会。

本人はそんな読まれかたを望まないかもしれないし、短歌もそんな文脈のなかにあるのではないのかもしれないけれど、あいにく同郷同世代、思うに、これは、私的には、愛媛県南予地方の1970年代の子どもを記憶する装置だ。

そして1970年代のあのあたり、橋も通ってなかったんだ、本州とは違う時空のなかにある。松山までならなんとかとどく、日本のいま、も、届かないあたりのできごとさあね。日本もアメリカも海外だった。
近代も現代も私性もへったくれもない時空の。段々畑にふちどられたエアポケットみたいな。
そういうところへ学習雑誌や児童書がとどく。海外から。世界ってこういうものだよ、みたいに。そうして、本なんか読んでしまった女の子は、出て行かなければならないんだ、どうしてかわかんないけど。そこにいられない。
そしてそこを出て行った。
たぶん私より1年か2年早く。それで、きっと私も出て行こうと、ながめていたんだ、少しだけ年上の子の背中を。
夏の日の午後の道を、一歳年上の女の子と歩いていた。彼女の着ていた服のちょうちん袖の影が、丸くふくらんでいるのが、何かとてもすてきに見えたのを、思い出したなあ。

 枇杷の木を上から下へたどるのが段々畑をぬけるちかみち

子ども時代の地図がね。いろんなふうに、ひろがっていって、あのなんにもない退屈な放課後は、それなりに、かけがえのないことではあった。

 ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット

これは、やはり南予地方の俳人、芝不器男の

 永き日のにはとり柵を越えにけり

に、私のなかでは接続する。やすたけさんの短歌は、短歌より俳句に似ている気がする。だからかな、短歌の言葉で批評するのが、どうもピンとこない感じがした。
そういえば、南予に、俳句はあっても、短歌はあったか? 中予なら短歌はありうると思う。子規もいたことだし、近代短歌の世界と思う。しかし南予は。読書会では、「私性」とか「欠落」という言葉がとびかってたけど、それもまた、南予という時空に由来する「欠落」と思うけど、うまく説明できそうにない。

思うに、あの土地の、大正や昭和のはじめ頃のメンタリティと、1970年代のメンタリティの間に、どんな違いがあるかといったら、歌集にも出てきたけど、ナガミヒナゲシという帰化植物がやってきた、っていうぐらいのことかもしれん。
それで、そういう帰化植物みたいなあれこれに、たぶらかされて、出て行ったひとりだな、私も。
なんで海さ渡ったかと思うけど、渡らないわけにもいかなかった。

そんなこんなを思ったりして、つまり、言いそびれましたが『ミドリツキノワ』の、あの「永き日の」記憶に、ありがとう。

思い出したので、南予俳人の俳句を。
私の偏愛の2つ。

 ふるさとや石垣齒朶に春の月  芝不器男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり 富沢赤黄男

やすたけさんには、夜中のバスの時間まで付き添ってもらって、本当にありがとうございました。