韓国① 海をわたる

11月26日午後、駅で車を降りる私に、子どもはきっと、そう言おうと考えていたのだろう。「ママ、よいお旅を」と言って、手を振ってくれた。

新幹線と在来線を乗り継いで下関国際港へ。1984年10月と85年8月に関釜(釜関)フェリーに乗って韓国へ行った。それ以来。

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昔、港の待合では、大きな荷物を抱えた大阪弁のおばさんたちがたくさんいて、荷物の見せ合いっこなんかしていた。こちらは荷物らしい荷物もなくて、ぼんやりすわっていたら、明日の朝、税関を出るときに荷物をもってほしい、それから免税店でお酒を2本買いなさい、それを向こうで売った差額をおなたのお小遣いにしてあげる、って声をかけられた。張さんというお姉さんだった。運んでいる荷物は向こうで売るのらしい。「税関で没収される。3か月したら戻ってくる。それをまた売りに行く。いたちごっこ」って言っていた。

「ポッタリジャンサっていうんだよ。風呂敷商売。」
そう教えてくれたのは2度目に乗ったときに出会った東京から来たというお兄さんだったが、そういえば出版の仕事をしていると言っていた。アジア関係の本を出してるって言ってたっけ。そうだ、就職先がなかったら、うちにおいで、って言ってくれたのだ。
就職より先に、卒業もままならなかったのだが、いやあ、すっかり忘れてた。今頃思い出してもどうしようもないというか、後の祭りも祭り。
もう名前も覚えてない。

で、ポッタリジャンサのおばさんたち、船のなかでは下着姿だったのが、港を出るときはコートを3枚も着込んで、まるまると着ぶくれていた。私は荷物を運んで、小さなテープレコーダーも、友だちへお土産だって言って、税関を通り抜けて、その頃日本円で5千円ばかり手にした。ずいぶん大きなお金だった。

あの頃のポッタリジャンサのおばさんたちは、どこへ行ったのだろう。

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昔は、大阪弁ばかり聞こえたのに、いまは、待合も船に乗ってからも、韓国語ばかり聞こえる。小さな子どもたちは韓国語ではしゃいでいる。韓国の団体客は、日本のどこへ行ってきたんだろう。

乗船すると、部屋では、40代~70代くらいの4人のおばさんのお喋りがとまらない。さっぱりわかんないが、大阪弁でも韓国語でも変わらないのは、おばさんたちはとても元気でたくましい、ということだ。聞いてると、意味もわからないのに、笑い出したくなって困った。おばさんたちの声の勢いはなんだかすごい。

一番年上ぐらいのおばさんが、日本の食材をつめこんだ大きな段ボールを3つも抱えていた。ここにすわんなさい、というふうに傍らの毛布を叩く。そのおばさんとならんで眠る。

朝、「釜山、さんぽ?」と、おばさんが声をかけてくれて、互いに言葉がわからないのだが、わからないなりにわかることもあって、彼女は4歳まで広島にいて、原爆にあって戦争がおわって帰国した人だった。親の故郷はハプチョンだが、今は釜山に住んでいて、下関に妹がいるので、キムチを運んできたのだった。
50歳のとき足が悪くなって、治療のために、広島の河村病院に入院した。亡くなった河村虎太郎先生には私も一度お会いしたことがある。在韓被爆者の渡日治療に熱心に取り組んでいらっしゃった。

被爆して帰国されたのなら、どんなにか苦労されたでしょう。広島のどこにいたのか、とか、いろいろ聞きたいことは思い浮かぶし、もっとお話できればよかったけれど、言葉がなんにも出てこない。顔みあわせて笑うだけ。

ふと、年とって魔女になるなら、こういうおばあさんがいいなあ、と思った。

私の記憶のなかの関釜(釜関)フェリーは、何よりもまず、女たちが物を運ぶ船なのだが、いまも団体の旅行客にまぎれながらも、ひたすらに自分の海を渡りつづけているおばさんたちがいることが、とてもなつかしくて、とても心強かった。
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