1984年のネズミ

昨日も夜まで文房具の整理。
紙類。
バインダーがなければ閉じられない紙類は、どうしよう。出納簿用の紙類は、私が使えるかしらと思ったけど、使いづらいなあ。
大学ノートがたくさんあるが、小さな子どもは使わない。
新しいノートは売れるでしょう、と言ってもらったが、困ったな。
……売れないと思う。
それに、使いかけのノートの使った部分を破りとったノートが多い。

小学生の大きい四角いマス目のノートもわりとあるが、アルファベットを書くのにはむかないし。
私の子どもにつかわせよう、と思ったら、いま使っているのとはマス目の大きさが違うとか、「これ、女の子の名前が書いてあるよ、いやだよ」とか、いろいろ難しいが、紙を貼るとか、家で使うとか、できるでしょ。

たとえば、地方の山岳地帯であるとか、物資の不足しているところなら、どんな紙でもどんなノートでも、役に立つかもしれないんだけど。

パアラランで困っているのは、モノではなくてお金。モノの流通は、お土産程度の感覚。そうでなければやってらんない。
そういえば昔、あれこれモノをやるという人に、モノはいらないんです、お金がいるんです、って言ったら、「金だけか!」といきなり怒り出されたことがあったなあ。「ええ、お金だけです。くださるなら、モノをお金に換えて、そのあと下さい」って返事したら、もっと怒った。
善意を踏みにじられたような気がしたんだろうなあ。
善意というのは、難しい。

白い紙。これは使えるかも。

メモ帳、便せん封筒葉書の類もひとやまある。きれいなものは使ってもらえるかも。
黄ばんだ紙は……私が使う。

エアメール用の封筒便せんは、なつかしいけど、今はメールでやりとりできるので、これはもう必要ないなあ。
と思ったときに、ざざざざざっと、時代が剥がれ落ちる音がきこえたような気がした。

葉書。もっていってもどうしようもない気がするので、うちで使うか。
これはかわいいなあ、というのはないけど。少女まんがのふろくのようなものは、気恥ずかしいけど。でも、絵はがきとかはまだしも。
使いそびれたらしい年賀状の類はどうすればいいだろう。昭和61年元旦とか、1984年とか。
そのころに流行った図柄とか、見てればそれなりになつかしいけど。次に牛年がやってきたとき、次にネズミ年がやってきたとき、次にひつじがやってきたとき、とかに使える?

……遠い過去からの黄ばんだ年賀状を、送る、ということ、貰うということ、おもしろそうだけど、不気味だなあ。

目の前をよぎる1984年のネズミたち。
楽しそうに走ってる。

ざざざざざっ。