土の道


 天気はいいし、街に出たので、子どもを平和公園で遊ばせた。
 桜の葉が赤や黄色に降りつもっていて、子どもはその落ち葉を拾っては通りがかった人に渡していた。親としては、その度に「すみません、どうも」と頭を下げるよりしょうがない。以前に通りがかりの人からカエデの落ち葉をもらったことがあるので、そうするものだと思っているのだろう。
 土の上にふかふかと降り積った落ち葉の上を、上機嫌で走り回り、木の根につまずいては転んでいた。土はやさしい。転んでもどうということはない。アスファルトの坂道で転んだときは顔じゅう血だらけにして大泣きだった。しばらく唇と鼻に大きなかさぶたがあった。

 はじめてパヤタス(フィリピン)のゴミの山を訪れたとき、その頃はまだ道は舗装されていなくて、土の坂道を降りていった。ゴミの匂いのなかに豚の匂い鶏の匂いがして、はじめての土地が、とてもなつかしい場所のように感じられた。
 子どもの頃、鶏を飼ったことがある。近所では豚も飼っていた。家の前の道がまだ舗装される前、土の道を木材を積んだ馬が通っていったものだった。ときどき馬の落し物が道の真ん中にあり、いつのまにか土にもどっていた。
 パヤタスの土の坂道を降りながら、5歳か6歳頃の光景のなかに、降りていく感じがしていた。その頃の自分から、やりなおそうか、と思った。間違ったんなら、最初からやりなおせばいい。人生は取り返しつかないにしても、私は私をやりなおせる。
 たぶん、私は、自分の底のほうに向かって、自分自身との和解に向けて、あのとき土の坂道を降りていた。豚や鶏の匂い、水たまりをよけながら歩く土の道に、しばらく感じたことのない嬉しさがこみあげていた。