ヴェールの向こう


 容疑者が自供した。「悪魔が入っていた」と言ったらしい。

 一冊の本のことを思い出した。1958年に起こった小松川事件(女子高生殺害事件)の犯人の18歳の在日韓国人二世の少年の獄中書簡をまとめたもの。『李珍宇全書簡集』(朴寿南編 新人物往来社)

 「私がそれをしたのだった。それを思う私がそれをした私なのである。それなのに、彼女達は私に殺されたのだ、という思いが、どうしてこのようにヴェールを通してしか感じられないのだろうか」

 その本は、大学1年の秋にたまたま大学近くの古本屋で見つけて、なぜ買ったのかわからないのだが買って、読んだのだった。読みながら心臓がガクガクしたことを昨日のことのように覚えている。
 殺人犯の少年と、少年よりすこし年上で、姉のようなかかわり方をした朴寿南との書簡のやりとりは、自己疎外の問題、在日二世のアイデンティティの問題、差別の問題などなど、実に多くの問題を直視させてくれるものだが、私がふるえたのは、「ヴェールを通してしか感じられない」という感受のあり方が、そのまま、そのときの私の心だったからである。

 世界は、ヴェールの向こうにあるようだ。自分自身の行動も半ば他人の行動のようにうつろに感じられる。どうすれば自分が世の中というところに参加できるのかわからない。まわりの人とのやりとりが、なんだかとても難しくて、途方にくれていた。

   「ヴェールを通してしか感じられない」という感受のありようは、とてもとてもありふれた、とても普遍的なものなのかもしれないと今にして思う。幸福、なものでは決してないが。

 魑魅魍魎といっては人間のほかにないし、聖人もまた人間のかたちをしている。その振れ幅のはるかさを思えば眩暈がする。魔のつけいる隙など、おそらくどこにでも、だれにでもあるのだろう。地上のあらゆる場所の戦争や、殺戮や、餓えや、搾取や、いじめを思えば、暴力を免れてある一瞬一瞬は、すでに奇跡のようなことかもしれない。でもその奇跡を、求めて生きるほかにない。