カクメイ


 ユウトが6年生の一時期、トランプの大貧民のゲームに夢中になり、児童館で会う度、つきあわされた。彼の手の内はなんとなくわかる。もうすぐにあがれると確信しているユウトに、「カクメイ」と4枚揃いの札を出したとき、私は痛快、あがれずに、結局大貧民になったユウトはものすごく悔しがっていた。
 それからユウトも、しきりに「カクメイ」をしたがるようになった。大貧民で一番楽しい手は「カクメイ」だと思う。一番強いはずの札が一番弱くなり、一番弱かった札が一番強くなるのは、どきどきする。みんながあわてふためくのも楽しい。札が揃って「カクメイ」ができるかもしれないときは、私もユウトも、失敗して大貧民になってもいいから「カクメイ」がしたい。
 あれ以来、トランプ遊びもしていないが、大貧民をするときはきっと、ユウトのことを思い出すだろうな。しばしばうんざりしたが、ほんとうはかなり、楽しかった。

 夕方、NHKハイビジョンで宝塚の「ベルサイユのばら」公演を放映していた。あまりのなつかしさに、しばらく見入って、子どもに「おかあさんといっしょ」を見せなかった。
 中学生のとき、劇画を読んだ。それはそれなりの関心だったが、それがきっかけで、フランス革命にハマッた。歴史の本をよみふけった。何年何月にどんなことが起きたか、ほとんど暗記していた。国王や王妃はもちろん、その後、革命家たちが次々に処刑されていった日付まで。当時のパリの地図はそらでも描けるほどだった。
 故郷の市立図書館には、13歳の私がひと夏借りて読み込んだ歴史の本がある。何年か前に、建てかえられて新しくなった図書館に立ち寄ったとき、その本を見つけてなつかしかった。ページをめくると70年代半ばに私が読みながら線を引いた、鉛筆の線が、そのまま残っていて、いきなり心臓がどきどきして、あわてて閉じた。おそろしいことをしたものだ。線は、ほとんどすべての行に引かれていた。

 「民衆の阿片。それは宗教ではなく革命である。」(『ヴェイユの言葉』富沢真弓編訳)
 この言葉につづく文章が切実に美しい。
 「生存と労働の理由ではなく、理由を探さずにすむ充溢を、永遠の光が与えてくれるとよいのに」