沼の春


 子どもの頃、よく遊んだ場所に、大池と呼んでいた沼があって、町のはずれ、田んぼや畑がひろがるなかを山に向かって行くと、山のふもとの木立のなかに、その沼はあった。
 今は近くをバイパスが通っていたり、田んぼも埋め立てられて住宅になっていたりするが、以前は乾いた土の道が、沼の傍らを通って山の奥の屠殺場に続いているだけだった。

 春になるとそのあたりに出かけた。山に山菜摘みに行ったのだ。父や母と一緒のときもあったし、ひとりのときもあった。押し花にする野の花を摘んだときもあったし、画用紙と絵の具をもって、沼の岸にすわって絵を描いていたときもあった。
 沼の水面には黒い菱の実がぷかぷか浮いていた。それをひろって、中身を名札のピンか何かでくりぬいて、笛にして吹くといい音がした。菱の実は小さな鬼の顔のようにみえて、鬼笛、と呼んでいた。
 友だちと一緒に遊んだことも散歩したこともあったけれど、ある時期からは、もっぱらひとりで行っていた。
 春、向こうの山からこちらの山へ鳥が鳴きかわして、沼の水面は陽射しにきらきらして、みずすましがすべっていく。木立にさえぎられて、私の姿はだれからも見えない。心落ち着く逃げ場だったのだ。春の暖かい日の半日か1日、そこで過ごすことができれば、その後の何週間か何ヶ月かの日常を耐えることもできそうだった。

 高校を卒業して、故郷を離れるときも、最後に大池で絵を描いて過ごした。何げなく家の襖に貼っておいたそのときの絵を、その2ヶ月後に脳腫瘍が発覚した母が、手術後、自宅療養していたときに、好んで眺めてくれていた。

 あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか (川野里子)