『伽倻子のために』


 雨、ずっと降りつづいている。夜、外に出て、マンホールの上を通ったとき、その下を、水がごおごお流れていくのが聞こえた。とすると自分はいま流れの上、水の上に立っているのだと思った。

 ふと、もうずいぶん前の映画、小栗康平監督の『伽倻子のために』を思い出した。女優の南果歩のデビュー作でもある。その映画に、深夜の街中で、杖のようなものを持って、土中の水道管のわずかな水漏れの音を聴き分ける仕事をする男の、とても印象的な場面があった。
 映画は李恢成の原作。彼の小説のなかでは、例外的に好きな作品だ。好き、というのは正しくない、好き嫌いを超えて、20代のころの自分にとって、なにかしら切実な作品だった。

 在日朝鮮人青年、相俊と、日本人少女、伽倻子の恋愛は成就しない。なぜ成就しないかは、相俊が(あるいは作家が)考えるような、民族や歴史、あるいは民族分断の問題のせいでなく、あるいは伽倻子の生い立ちや過去のせいでもないと思う。そういう問題に対するにあたっての相俊自身の心、人間性に関わる問題なのだと、学生の頃、本を読んだときに思った。そして人間性に関わる問題だから、民族や立場の違いを超えて、胸に迫るものがあるのだ。
 きっと相俊は、自分の欺瞞と残酷に気づかないだろう。相俊が正しさの観念をふりまわすときに、現実の伽倻子は否定されつづけていた、ということに。その痛みに。そして否定されるゆえに否定されるものになってしまう、そのほかの自己表現はなくなってしまう、その苦しさに。相俊には、伽倻子を憐れむ余裕まである。その余裕を傲慢というのだと思う。
 気づかないから、書かれえた作品、でもあるのだ、きっと。

 水道管の音を聞く男の姿を、一度だけ、見たことがある。10年以上も昔。深夜、だれもいないがらんとした通りを、映画の通りに、地底の水音に耳をすましながら、歩いていく男がいた。