SL山口号


 土日は、山口の義父母の家へ。土曜は雨で、中国自動車道から見える景色はすっかり白黒。水墨画のなかにまぎれこんだようだった。高いところでは雪がまだ残っていた。高速を降りると、紅梅白梅、菜の花、れんぎょうと、花の色が雨ににじみながら、車窓を流れていった。

 その夜のニュースで、今年もSL山口号が走り出したといっていたので、見にいくことになった。春から秋までの土日祝日を、小郡から津和野まで走る観光列車だ。幸い、昨日の日曜はまずまずいい天気。子どもに見せる、と言いながら、見たいのはもちろんパパだ。むろん見るだけで終わるはずもなく、座席が空いているとわかると、乗り込むことになった。湯田温泉から長門峡まで50分ほど。
 車内は家族連れでいっぱい。なんだか楽しい。レトロな車内をいったりきたりしてみたり、展望台に出て、沿道の人たちが手を振ってくれるのに応えたり、煙をあびたり、駅で止まる度、写真を撮ったり。落ち着かない私たちにかわって、義母が、荷物や、ときどき子どもをみていてくれた。記念のバッヂももらった。
 長門峡の駅に降りると、義父が車で迎えにきてくれていた。風が強くて、春まだ浅い長門峡の景色だった。

 中原中也の詩を思い出した。もしも中也が30歳ぐらいで東京で死んだりせずに、山口に戻って生きつづけたとしたら、どんなふうな生活者になったのだろう。どんなふうな中年や老人になったのだろうと思ったりした。年とった中也を見てみたいと思うのは、たぶんもう、私も若くないんだな。

 しばらく前に読んだ『希求の詩人・中原中也』(笠原敏雄 麗澤大学出版会)は、心理療法の視点から詩人を見つめて、中也の評伝としてもとても興味深い内容だった。

  冬の長門峡   中原中也

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても蜜柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。

あゝ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。