金鶴泳


 拉致事件の捜査、というニュースを聞いていて、金鶴泳という在日朝鮮人作家の『郷愁は終り、そしてわれらは─』という本のことを思い出した。スパイ活動にまきこまれていく男女の、実話に基づいた話だった。金鶴泳の作品としては異色と思う。探してみると、本棚の奥のほうに、埃まみれで、他の何冊かの本と並んであった。
 金鶴泳は学生の頃、好きでよく読んだ作家だった。『あるこーるらんぷ』『石の道』の2冊は大学の近くの古本屋で見つけた。はじめて読んだときの衝撃を忘れない。死後(1985年に46歳で自殺している)に出版された『金鶴泳作品集』は図書館にあったのをコピーした。
 父の暴力、暗い家庭、自身の吃音、恋愛の破綻、民族の分断や差別、妹たちの北朝鮮への帰国など、痛みにみちた作品のなかで、傷ついてきた自分が、傷つける自分である、ということを、作家は見つめていた。自分をとらえた生き難さ、苦しみの由来を見つめるまなざしの誠実を、好きだった。

   「愛とは、想うことだとぼくは思うのです。人なり、物なりを想う。想う心が、思いやりとなり、労わりや慈しみとなり、広くいえば、他者の存在を尊重する、ということになるのではないでしょうか。愛が欠けている。想う心が欠けている。それがこの世のあらゆる不幸の根源のようにぼくには思われるのです。そして、ぼくの家の不幸の根源でもあるように思われるのです。」(想う、の2字に傍点)
   『金鶴泳作品集』から「土のかなしみ」(死後に発表された作品のひとつ)