かつて出かける子供がいた ホイットマン
かつて毎日出かけていく子供がいた
そして目をとめた最初のもの、そのものに彼はなった、
そしてその日一日、あるいは一日のある時間、
あるいは何年ものあいだ、あるいはうちつづく幾時代ものあいだ、そのものは彼の一部になっていた。
『草の葉』岩波文庫
もちろん詩はさらにつづく。
「早咲きのライラックがこの子供の一部になり」、
道ばたの雑草が、彼の赴く都会や田舎のすべての変化が、父と母が、川や小船が、出会う人たち、あらゆるものが──
「地平線の果て、飛んでいる海がらす、海岸の沼地と渚の泥の快い香り、/これらのものがかつて毎日出かけていき、いまでも出かけ、そして今後も出かけつづけるあの子供の一部になった。」
ベランダにこいのぼりを出した。今年でもう3年目。子どもが「サカナ」とか「アユ」とか「キンギョ」とか見る度に違う呼び方で呼んでいる。きっと黒いのが見えたら「アユ」で赤いのが見えたら「キンギョ」なのだろう。こいのぼりと言えず「コイボービー」。
この子はどんなものを、自分の一部にしていくのだろう。美しいものがたくさんあってくれるように。しあわせな光景が、たくさんあってくれるように。