帽子


 私が新しい帽子をかぶっていると、子どもも自分の帽子をかぶるようになった。お出かけ、となると、雨でも夜でも帽子をかぶる。ところが昨日の朝、出かけようとすると子どもの帽子がない。青い縞模様のチューリップハット。探したけれど見当たらないし、子どもは「おぼうし、おぼうし」と泣きそうである。それで私の古い青い帽子をかぶらせたら、顔にずれ落ちてくるのを手でもちあげながら、けなげにずっとかぶっているのが、たいへんかわいらしかった。
 午前中、公民館の育児サークルで遊び、それからチューリップハットを探しに、数日前におじいちゃんと出かけた先をまわったけれど、どこにもない。あきらめて帰ってきたら2階からひょっこり出てきた。 ああ、よかった。もうそろそろ小さくなってきていて、たぶん、夏には新しいのがいるだろうな。

 黄色い帽子が目の前を飛んでいったことを思い出した。飛んでいく帽子をずっと追いかけていた。幼稚園の帽子だ。幼稚園からの帰り、毎日毎日、私の帽子はさらわれた。うしろから、いつもの男の子たちがやってきて、追い抜きざまに私の帽子をもっていく。2人か3人か4人。いくつもの手から手へ、帽子はひらひら飛びまわって、走っても背のびしても、私は帽子に届かない。でもその帽子をかぶって帰らなければ、きっと叱られる。息をきらしながら帽子を追いかけていると、そのうち、唐突に、帽子は投げ捨てられる。道の上や、止まっている車の上、ゴミ箱の上、そんなところに。男の子たちはもういない。私は帽子を拾って、ようやく家に向かって歩き出す。

 何週間か何ヶ月かわからないけれど、そんなことが続いていた。でもそのことを、私は誰にも言わなかった。たぶん、どんなふうに言っていいかわからなかったのだ。帽子をもっていく男の子たちのことをどういえばいいかわからないし、何より、毎日見つかって帽子をもっていかれてしまうのは、自分の落ち度のような気がしていた。
 うしろからやってくる手に、帽子がもっていかれる瞬間の絶望感みたいなものを、今もおぼえている。また見つけられてしまった。毎日毎日どうして見つかってしまうのだろう。でもどうすれば見つからずにすむのかわからない。

 黄色い帽子がひらひら飛んでいった様子は、今も記憶にあざやかで、でも、男の子たちのことは、名前も顔もなんにも知らない、思い出せもしない。同じ幼稚園のスモックを着ていた、ほんとに小さな子どもたちだったのだろうけれど。