墓参


 知人の墓参りに行く。墓苑はここよりずっと北にあるので、桜はいまが満開。つつじ、れんぎょう、雪柳。田んぼには水が張られはじめ、田んぼののり面には芝桜。山里の春の景色がきれいだった。
 もう6年になるのだと思う。享年76歳。K老人は、私が心から信頼した大人のひとりだ。とはいえ、Kさんについて、私はほとんど何も知らない。いつも広島に来れば立ち寄った喫茶店で (その頃、私は東京にいた) 何度か話をしたことがあるというだけなのだが、たぶんそれで十分だった。
 あるときから喫茶店で見かけなくなり、ようやく入院先の病院を知って尋ねると、すでに前年の春に亡くなっていると知らされた。あのときは病院の門を出て、声あげて泣いた。その足で、病院で聞いた遺族の家を訪ね、墓所を教えてもらい、それから毎年、年に一度は墓参する。

 Kさんに会うと、心のなかに光が差し込んでくるようだった。はじめて喫茶店で会った日に、喫茶店を出て、アスファルトの道に光がゆれていたのを、いまも、まぶしく幸せな景色として思い出す。あの安堵は、何だったのだろう。

 「悔いのない青春じゃったね」とKさんは言った。私が何もかもなくしてしまっていたようなときに。世の中とのやりとりの仕方が、もうすっかりわからなくなっていたときに。仕事もお金もなんにもない、愛情や友情も見失っていたようなときに。
 そんなにたくさんの話をしたわけではないのに、「悔いのない青春じゃったね」と言われたときに、私の心の深くがよろこんでいた。その言葉をいちばん言ってほしかった。拙かろうが愚かだろうが、心の深くには、そのようにしか生きられない、という納得があったのだ。

 この数年、敬愛した人たちをひとりずつ亡くしてゆく。そんな年齢になったということではあるのだが、本当のことを言えば、心から信頼できる大人なんて、そんなにたくさんはいない。出会っていない。得難い人たちを失っているのだ。
 では自分は、信頼できる大人になっているだろうか。心寒くなる自問だ。