亀が歩いていた


 アスファルトの道の真ん中を、体長20~30センチもあろうかという亀が歩いていた。

 山口まで行くのに、ダムや別荘地があるような山のなかの道を走った。川が流れていて、山の緑がふるえるほどきれいで、楽しいドライブだった。
 その山のなかの道を、亀が歩いていた。いくら信号もなくて車も少ないといったって、こんなところを歩いていたら轢かれてしまう。捕まえて、沢へ降りていく山道のあたりに放してやった。

 カシオペアという名前だったろうか。ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる亀。

 学生の頃、韓国に行ったとき、釜山で日本語学科の学生と知り合った。年上だったので「オッパヤー(お兄ちゃん)」と呼んでいた。家に泊めてもらって、オッパヤーのお母さんと一緒のふとんで寝させてもらったりしたのだけれど、帰国のとき、オッパヤーが港で口ずさんでいたのが「モモ」という曲だった。意味を聞いたら、お話に出てくる「モモ」という女の子のことを歌った歌だと教えてくれた。それで帰国してすぐに、その本を読んだのだった。

 港でオッパヤーがとても名残惜しそうにしてくれて、「また遊びに来る。またすぐに会えるよ」と私が言うのに、「きみはオッパヤーのことを忘れるよ。好きな人を見つけて結婚して、オッパヤーのことなんか忘れてしまうよ」としきりに言った。
 停泊中の船から、私があやまって海に落としてしまった虎のぬいぐるみを、桟橋で見送ってくれていたオッパヤーと仲間たちが、あれはどうやって拾い上げたのだったろう、ともあれ海からひきあげてくれて、船まで投げてくれた。汚れてお土産にできなくなったので、ぬいぐるみは20年後の今も私の手元にある。

 オッパヤーの言ったことが正しかったかもしれない。いつでも行けるつもりだったのに、あれ以来韓国に行っていない。オッパヤーや他の学生たちとの音信も、間もなく途絶えた。オッパヤーが歌ってくれた「モモ」の歌も、すっかり忘れた。
 でもオッパヤーが正しくなかったこともある。私が今も、たとえば亀を見て、オッパヤーを思い出すということだ。たった数日、一緒に釜山の街を歩いただけなのに。オッパヤーのほうこそ、まだ私のことをおぼえていてくれるだろうか。