「無」のなかに


 昼間は、いたって寡黙な子どもが、夜、さあ寝るよ、と電気を消したころから、嘘のようにおしゃべりになる。30分も1時間も、ついにくたびれて眠るまで、たいへんに興奮して、しゃべったり(絵本の文章を暗唱するのだ)、うたったり、手足をばたばたさせたり。毎晩、修学旅行のようで、つきあうのは、たいへん疲れる。
 かといって、電気をつければ、起きておもちゃで遊ぶので、やっぱり電気は消すほうが、眠りに近いだろうと、消すわけだけれど。

 たぶん、明るい間は、外からの情報がたくさんあるから、それを受け止めるほうが主になっていて、でも、暗くなると、外からの情報がないので、自分の内側にあるものが解放されていくのかもしれない。寝る前の真っ暗の時間が、子どもは、1日のうちで、いちばん自由そうで楽しそうだ。
 闇のなかに、絵本のページのひとつひとつが呼び起こされているんだろうか。こねこちゃんは、とても楽しそうに買い物に行き、こいのぼりはきっと、きみのすっとんきょうな声にのって、天まで泳いでいったよ。

 「僕はこの世を自分の中に再び呼び起こそうと思うとき目隠しをする」

 という言葉を思い出した。バルザックの『ルイ・ランベール』という作品にある言葉らしい。つい先日読んだ辻邦生のエッセイ集『言葉が輝くとき』のなかに引用されていた。記述と映像(イマージュ)の違いを述べたくだりに。

 バルザックを引用して言っているのは、「無」のなかに立つ、ということ。「無」の場に、情感(イデー)の側から呼び出されてくるものが映像(イマージュ)であり、小説 (あるいは芸術) とは映像(イマージュ)であり、それは、たとえ私小説であっても現実とは切れているのであり、既に存在するものを伝達する記述とは違う、という内容。

 「無」のなかに立つ、という言葉が印象的だった。