闇はながれて


川ばかり闇はながれて蛍かな (加賀千代女)

 夜、蛍を見に行った。下の川には、雨上がりのせいか、季節ももう終わりなのか、ほんの数匹。子どもが「ほたる、ほたる」と蛍の光だけ見て、(まわりもみないで) 暗い橋の上を走っていくのを見るのは、そのすぐ後を追いながらも、すこしこわいようだった。
 夜に外に出たついで、「もうすこし北に行くと、もっといるかもしれないよ」ということで、30分ほど車を走らせた。いたいた、蛍。川の流れの上に、水田の上に。向こうの闇に。

 どこにでも、蛍はいた。小学校の低学年の頃は、家の近くの小川にいて、夏の夜はよく蛍を取りに行った。籠につかまえて帰って、すこしの間、家のなかで光らせて楽しんだ。逃がしてやらないと死んでしまうよ、と母に諭されては、外へ放してやった。
 あのゆったりした時間は、どこへ行ったのだろう。あたたかい闇につつまれて、水の音を聞いていた。草の上の蛍が光るのを、眺めていた時間は、つかのまだったに違いないけれど、永遠というものがあるとしたら、あのつかのまの時間のことなのだと思う。

 それから何年もたたないのに、小学校の終わり頃にはもう、家の近くで蛍を見ることはなくなっていた。川が臭くなっていた。
 社会科の教科書には「公害」という章があって、水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそく光化学スモッグ、などという言葉を覚えた。都会や、大きな工場のあるところはこわいのだと心にすりこまれたが、何かがこわれているのは、都会へ行かなくても工場を見なくても、蛍がいなくなったことで、十分感じていたと思う。
 町内会でどぶさらいがはじまったのも、その頃だった。昔のようなきれいな川をとりもどそう、というようなことではなかったと思う。ただ、あんまり臭くてやりきれなくなったのだ。
 親に見せたくないプリントなどを、学校の帰りに川に捨てていた私は、最初のどぶさらいのときに、それが見つかるんじゃないかとびくびくして、それから捨てるのをやめました。

 母が小さな体で一生懸命にどぶさらいをしていた姿が、いまでも目に浮かぶ。どぶさらいをしなければいけないと、近所の人たちに呼びかけてまわったのも母だった。その母もとうにいない。
 思えば人生の光景は、ながれる闇に浮かぶ一期一会の蛍。