脱創造


 『シモーヌ・ヴェイユの哲学──その形而上学的転回』 (ミクロス・ヴェトー著 今村純子訳 慶應義塾大学出版会) を読んでいる。研究書、というのは読みにくい。読み始めるや、たった5分で眠くなる、すばらしい本。

 ヴェイユの使う「脱創造」という言葉を考えていて、それがキリスト教の教義にかかわる言葉かどうか知らないが、むしろ仏教の「無作」という言葉と響きあうように思った。はたらかず、つくろわず、ありのまま、ということだが、洋の東西を問わず、道徳・哲学・信仰というのは、ありのままで「善」である(ほとんど至難と思われる)、という存在のありようへ向けての魂の営みに関わる思索・実践であるのだろう。
 「絶対善」という言葉もまた、善悪二元論の彼方で、この宇宙を美しく回転させている。ヴェイユの言葉の比類ない美しさは、絶対善へのひたむきな希求でもある。

 「苦悩と不幸」が重要な思索の対象となるのも、「脱創造」と関わってくる。それはキリストの受難につながる可能性をもつからだが、そうでなければ、ただ人格の崩壊をもたらす。不幸についてのヴェイユの記述は、あらゆるなぐさめを毅然と拒否して、なぐさめを拒否することで、真理への道をひらくようなものとしてある。救いはそちらのほうにある。

 「わたくしが支配できない状況の働きによって、自分にあまりにも密着しているために自分自身であるとみなしているものまで含めて、どんなものであれ、いついかなる時であれ、わたくしから奪い去られることがある。わたくしのうちには、わたくしが失うようなことがないようなものは何一つない。偶然によって、いかなる時でも、わたくしであるものを取り去って、代わりに、どんな卑しい軽蔑すべきものにもとって代わられてしまうことがありうるのである」(S・ヴェイユ)

 ヴェイユのこの言葉をふるえながら読んだことがある。昔、自分のなかに、おびえた獣の存在をしか感じられなくなっていた頃に。