力の詩篇


 子どもは、最近は何か気にいらないことがあると、親を叩く。それで「ママをどうして叩くの」と言っていたら、叩くときにはそう言うものと思ったらしく、べそをかいたような声で「ママ、どうして叩くの」と言いながら私を叩く。声だけ聞いたら誤解されると思う。なんか、ずるい。
 なんか、ずるいのだが、「ママ、どうして叩くの」は、「ママ、どうしてぼくに叩かせるの」と言っているのであろうから、力を振るうことも、せつない話ではあるのだ。

 シモーヌ・ヴェイユの『イーリアス 力の詩篇』はとても美しい論考だ。

 「『イーリアス』の真の主人公、真の主題、その中心は、力である。人間たちに使われる力、人間たちを服従させる力、それを前にすると人間たちの肉がちぢみ上がる、あの力だ。そこに現われる人間の魂の姿は、たえず力との関係において変形され、みずからは使用しているつもりの力にひきずられ、盲目にされ、自分の受ける力の束縛に屈した姿である。」 (シモーヌ・ヴェイユ著作集)

 力を賛美しないこと、ものごとは力で解決できないことを、ほんとうに知らなければいけない。力のもとで、人間はモノでしかなく、奴隷にしかなれない。力を振るわれる側だけでなく、振るう側も。

 とりあえずちびさん、ママを叩いてもジュースのおかわりは出て来ないのだと学習してください。