死んだ女の子

 去年、原爆の日の前夜に、広島の原爆ドームの前で、元ちとせが歌った「死んだ女の子」をあらためてCDで聴いた。あの夜、私たちは原爆ドームまで出かけていったのだが、暑い夜で、まだ1歳だった子どもが眠れなくて泣きやまず、集まってきた人だかりで何にも見えず、音響もなくてなんにも聞こえず、深夜、疲れ果てて帰り、念のためにまわしておいたビデオで、聴いたのだった。ナジム・ヒクメットの詩。でも曲は新しい。私が知っていたメロディーとは違っていた。
 
 「死んだ女の子」をはじめて聴いたのは、学生のとき。「ひろしまの冬」という芝居のなかで歌われていた。なんという劇団だったのか、もう覚えていないけれど。芝居は在韓被爆者の問題を扱ったもので、強烈な印象だった。強制連行、差別、被爆、帰国後の生活の苦しみ、被爆の後遺症、さらに、在日韓国人二世のアイデンティティの葛藤、難しいテーマを取り上げながら、観念でない切実さがあった。何より切実だったのは、「広島にかえりたい」という被爆者たちの声。被爆という苦しみを負わされることになった土地であっても、そこは、彼らが青春を過ごした土地であったり、生まれた故郷であったり、あるいは、家族や仲間の骨がいまもどこかに埋まっている土地だったりするのだ。その芝居の最後に、ブランコにのった少女の亡霊が歌っていたのが「死んだ女の子」だった。
 その芝居を見た翌年かその翌年、私は韓国のハプチョンという町を訪ねていた。たまたま迷い込んだ食堂の裏庭でその店のおじさんに声をかけられた。その食堂のおばさんは、広島で生まれて、戦後帰国した。聞けば、私がその頃暮らしていた同じ町内で生まれたという。首のケロイドをみせてくれた。数年前には治療のために渡日して広島の病院に入院した。そのときは食堂の仕事が大変で「はやく帰ってこいと日本に電話をかけたよ」とおじさんは言った。私はその家に泊めてもらって、私と同い年だったその家の娘と一緒のふとんで寝た。あの小さなオンドルの部屋がなつかしい。

 学生の頃、在日韓国人被爆者の被爆体験の聞き書きに携わったこともあって、被爆体験を聞く機会には恵まれたけれど、聞いた当時よりも、いまになって生々しく思い出されるのは、すこしでも理解できるには、私の側の人生経験が必要だったということなのだろう。いろんなことを思い出す。そして、お話を聞かせてくれた多くの方がすでに鬼籍だ。