ヨイトマケ

 最初は犬に追い返された。次には、もう思い出したくないといわれ、その次には、あんたに話すことは何もない、話してもどうせあんたには何もわからん、と言われ、そこをなんとか、と通ったある日、Aさんは堰を切ったように話し出した。5歳のとき日本にきたこと、18歳で被爆したこと、戦後は5人の子どもを育てるために、女ながら土方して働いたこと。
 「働いて働いて、原爆で壊れた道路、みんななおした。朝から働いて、次の朝まで働いた。働きすぎよ。もう体壊してしもうとる」。
 ひさしぶりに「ヨイトマケの唄」(作詞作曲、美輪明宏。私がもっているのは新井英一のCD)を聴いたら、あのときのAさんの声が耳にもどってきた。学生の頃、韓国人被爆者の被爆体験の聞き書きをしたときのことだ。
 あの頃、Aさんは50代半ば。私の死んだ母と同世代だと思ったのを覚えている。さすがにもう土方はしていなかったが、失対(失業対策)の作業で、川土手の草刈りなどしていた。その現場でも、草を焼いている傍らで、話のつづきを聞かせてもらったのだった。「うちは韓国人よ。誇りもっとる。5歳のときお父さんに連れられて日本に来てから、韓国は行ったことない。でも韓国人よ。いじめられて、いじめられてきたんじゃから、絶対の誇りもっとる」。話の最後にAさんはそう言った。
 それから彼女は、私のことをあれこれと聞き、母が死んでいることと自活していることを知ると、いきなり財布から千円札を出して、「これでジュースでも飲みんさい。それから水商売だけはしちゃあいけん」と言って手に握らせてくれたのだった。びっくりして、それからこみあげるようにうれしくて、この千円札は使えない、絶対大事にしよう、と思ったが、いつのまにかなくなったのは、きっと風呂代か何かになったのだ。
 ヨイトマケ。女の土方労働者のこと。被爆体験もさることながら、女たちの生活史は壮絶だった。異郷の地で、仕事もなくて、男たちが酒と賭け事に溺れる間も、女たちは泥まみれで働いて子どもを育てていたのだ。現場監督から声をかけられると、それがどんな仕事でも「働きます、働きます」と答えたという、Aさんの「働きます、働きます」の声が、今も耳に残っている。Aさんが亡くなったことは東京にいたころ、風の便りに聞いた。60代になっていたろうか。
 
 私の母も土方をしていた。最初の夫が結核で死んで、25歳で未亡人になって、子どもを育てるために働いた。土方の仕事の現場で父と知り合って再婚、私と弟が生まれた次第。私が小学校の低学年ぐらいまでは、父の左官仕事の現場に母も一緒に行って働いていた。
 現場が近いときは、学校が終われば父母のいる現場に行って、私も、土を捏ねたり、捏ねた土を入れたバケツを運んだり、タイルを磨いたり、手伝っているつもりになっていたものだ。「ヨイトマケの唄」など知らないが、「父ちゃんのためならエーンヤコラ」のフレーズはよく耳にした。私が重たいバケツを運んでいると、まわりの大人たちが、励ますように、からかうように、そう歌うのだった。