小林文男先生逝去

 小林文男先生が、12日に亡くなったことを14日に知った。享年73歳。しばし呆然とする。
先生が、癌で長く闘病されていたことは知っていた。去年の秋に頂いたファックスでは、放射線治療の痛みを訴えておられた。でも、回復したらお会いしましょう、と書かれていて、きっとそのうち、お声をかけてもらえると、心ひそかに楽しみにしていました。
 
 私はまじめな学生ではなかったし、教授の名前などほとんど覚えていないけれど、そのなかで、どうしても忘れられないのが小林先生だった。1年のときに一般教養で「アジア史」の講義を受けた。そして4年のときに、先生率いる学生訪中団に参加して、中国に連れていってもらった。
 最初の講義のことは覚えている。「この学校はどんな学校か、君たち知っていますか」と訊いたのだ。1次試験の点数と偏差値だけ見て受験した学生に、どんな学校かと訊かれて答えられようはずもない。小林先生は続けて言った。「前身は師範学校です。教師をつくる学校だったんです。どんな教師をつくってきたか。生徒に軍国主義を教える教師です。そうして戦場に赴かせた。罪があるんですよ。」
 それから講義は、広島が軍都として発展してきたこと、アジア侵略の拠点であったこと、日本に侵略され爆撃された都市や民族のことへと展開した。先生の講義がなかったら、私は今も、知らなければならないことを、知らないままでいるかもしれない。知らないことにも気づかずに。
 「哲学とは何ですか」と先生が言ったことがある。「難しそうな言葉や知識を詰め込むことじゃない。哲学は生き方の学問ですよ。君自身がいかに生きるかということです。」いまも、あの声が耳朶に残っている。
 先生が怒ると、あたりの空気がびりびり震えた。そして先生は、たぶんものすごくやさしい人だった。
 
 大学を卒業して、それから東京に行って、学生時代のことも、もちろん先生のことも忘れて生きていた。それが、広島に戻ってきた翌年、思いがけず、先生の名前を耳にした。「プラッサ」という冊子の取材に同行する機会があって、そのときに語り部沼田鈴子さんの口から、小林先生のお話を聞いたのだった。それで、はじめて、小林先生にお手紙を書いた。
 去年の秋に『原爆碑を洗う中学生』(草の根出版会)という著書を送っていただいた。ヒロシマ平和教育に関する本。これを癌との闘病のなかで書かれたのかと、戦慄した。お手紙したら、ファックスでお返事を頂いたのだった。回復したら、お会いしましょう、と。
 
 小林先生が亡くなった。この土地にあった精神の柱が、またひとつ、すっと消えてしまったような、心細さ。
 北海道出身の先生がわざわざ広島まで来て、ついにここを終焉の地としてまで、語らねばならなかった数々のこと。次に取り組みたい仕事のことも書かれていた。先生は、次の生では、どこに生まれて、どんな仕事をされるのだろう。いつかまた、先生の講義を聴きたい。