ほんのすこしの水

 漫画家の岡田史子が去年亡くなっていたことを、今ごろ知った。享年55歳。もうずっと彼女は漫画をかいていなかったし、私も、彼女の作品を発表当時に読んでいたわけでなく、たぶんもう絶版のコミックをたまたま手に入れて読んだにすぎないのだが、大好きだった。
 1冊は『ほんのすこしの水』というタイトルだった。どこかにしまいこんでいるから、どんな作品なのかと説明できない。でもたぶん目の前にあっても説明できない。一作一作絵柄はがらりと変わるし、ストーリーも説明しようがない。何をかこうとしているのかわからないのに、それでも読めば、何かを受け取ってしまう。何かしら抱えあぐねてしまうようなものを。
 
 最近のインタビュー記事を目にした。
 「漫画を描いていた60年代後半のことや、漫画を描き始めたきっかけについて話せば長いんですけれども(笑)。わたしは12歳の時に母を亡くしているんです。そのときから「人間はいつか死ぬのに、どうして生きていかなくちゃならないんだろう」という疑問に取り憑かれて、それを漫画にぶつけて、読者に問いかけていたというかね。とにかく誰かに教えてもらいたかったんですよ。」
 「私は喪失感というか、ずっと持っていた疑問みたいなもの、それを埋めてくれる人を探し求めて、漫画を発表していたんです。だけども、誰もいなかった。私がそういう人を求めているということに気づいた人さえいなかったから。」
 
 なんだかとても納得した。漫画は質問の形式だったのだ。一作一作は、どんなふうに問えば、答えが返ってくるのだろうと、答えが返ってくることを
信じて投げつづけた質問のボール。わからなさの重さ。それがかかずにいられない切実さだったし、表現の力だったし魅力だった。
 そしてたぶん、答えは返ってこないと気づいたときに、漫画をかく理由も消えたのだ。
 その喪失(信頼の喪失であり内的必然の喪失)は、たぶん埋め合わせがつかない。気づく前には決してもどれない。
 それでも生きるなら、ちがう生き方をはじめなければいけない。彼女はキリスト教徒になったのらしい。 
 彼女が漫画をかくことをやめたのは、とても素直なことのような気がする。
 気づく前には決してもどれない。でももし、にもかかわらず、彼女がかきつづけていたとしたら。
 たぶんすっかり変わってしまった彼女が何をかくのか、見てみたかった気もする。もしかしたらとても退屈なものかもしれなくても。