烙印

 季節が過ぎたあとはすっかり忘れていた庭のプランターに苺が2つ、小指の先ぐらいの小さなのが実っていた。1つはすでに虫に食われていたので1つ収穫。子どもに見せたら、たちまち食べられた。

 自我のはじめは、所有の「の」らしい。2歳10か月になった息子は、なんにでも「リクの」をつける。「リクのブッブー」「リクのプーさん」。それは正しい使いかた。「リクのきゅうり」「リクのピーマン」(いまや勝手に冷蔵庫をあけて、なんでもひっぱり出す)。これはきみも食べるから、まあ正しい。でも私が手紙を書いていたり本を読んでいたりするときに、やってきて「リクのえんぴつ」「リクのほん」というのは正しくない。「リクのじゃないよ」というと、泣くのだ、これがまた。それでボールペンをとりあったりしていると、なんだか遠い昔の姉弟げんかの気分。「リクのおんがく」といって、机にのぼって生意気にCDをかけかえたりする。サティはつまんないらしく、ボリス・ヴィアンなんかかけてくれる。
 所有することを覚えたら、そのあとは、所有を放棄することを覚えなければいけない。きみの人生はまだはじまったばかり。大変だと思うけど、ほがらかに生きてください。

 夢のなかで、子どもの頃に暮らしていた家にいて、なぜか大学の頃の先輩と、死んだ友人のことについて話していたら、2階から降りてきた母が「水があがってくるよ」と言う。窓から外を見ると闇のなかを、濁流が流れている。なぜ今まで気づかなかったのか、もうすぐにでも上がってきそうなほど。あわてていろいろなものを高いところに上げるが、靴箱に靴ではなくて、氷をいれたコップを並べていたりしたのは、昔バイトしていた店で、とにかく忙しいので客が来てから水を用意していては間に合わないので、用意して棚に並べていた記憶が、あわただしさつながりででてきたのだろう。
 ああまた家が浸かるなあ、と思って目がさめた。中学の頃に一度ひどい床上浸水にあったのだが、すっかりそのときの記憶だった。
 目がさめて、それからまもなく雨が降り始めた。

 「烙印」という言葉を思い出した。

 火の鞠をつきて遊びしつかのまの記憶わが掌に烙印となる (苑翠子)
 少年時の貧のかなしみ烙印のごときかなや夢さめてなほもなみだ溢れ出づ (坪野哲久)