ミシン

 無料でミシンのお手入れします、という。電話なら断るのだが、訪問だし、気持ちのいい人だったので、見てもらうことにする。埃をとって油をさして、むろんそれが目的ではなく、新しいミシンの営業に来ているのである。そのミシンはいろんな刺繍ができる。それでアンパンマンの刺繍入りの小さい巾着を実演でつくってくれる。息子はミシンの音がこわくて逃げていたが、アンパンマンはものすごく楽しみにして待っていた。
 若い男の人が仕事とはいいながらとても上手にミシンを扱うのを見ているのは楽しい。去年までは縫製工場で働いていたが、倒産してしまったのだそうだ。去年娘が生まれたのがうれしくてしょうがないふうで、見本に持ち歩いている刺繍入りのスモックには子どもの名前も刺繍してある。
 アンパンマンの巾着を縫ってくれたミシンは、安くない。うちは女の子もいないのでそんな高いミシンはいりません、ということで引き取ってもらった。
 アンパンマンの巾着は、うれしかった。子どもがさっそく小さなおもちゃを入れて、「リクの」にしている。
 
 母がミシンを買った。小学校の終わり頃だったか、電動ミシンの出始めの頃。電動といっても、机つきで、足でペダルを踏む式の大きなものだった。母は電動というのがこわいので、最初から使うつもりがなく、もっぱら私が使った。といっても家庭科でパジャマをつくるときぐらいしか使わなかったが。
 それから私は家を出たが、まもなく母が亡くなり、住んでいた家が取り壊されることになると、父はミシンを私のところに送ってきた。6畳一間のアパート暮らしに、大きな重たいミシンはつくづく邪魔だった。それから引越しを重ねるうちに、ミシンは箱の部分を捨てられ、なんだか不恰好なものになり、それでも動いたから使っていたのだが、その間手入れは何にもしなかったから、ついに動かなくなって捨てられた。
 娘の一生ものと思って母は奮発したのだろうに。そのときは、電動ミシンが今みたいにコンパクトで安価なものになるとは、夢にも思わないことだったろう。
 
 思えば時代は、ああ、それから私も、母の思いを愚弄するように過ぎていったのだ。電動ものに、一生ものの夢を託すなんて、いまや信じられないことだけれど。