機械とのつきあいかた

 パソコンが変わった。いままでは8000円の中古のノートパソコンを夫が使えるようにしてくれていたのを使っていた。画面に小さな黒い傷が入っていたり液晶がはがれていたり、何より起動が遅くていらいらさせられたが、動いているのが奇跡のようなものだから、奇跡に感謝して使っていた。
 ところが画面の傷がすこしずつ大きくなってきた。見かねた夫が、新しいのを探しに行こう、という。新しいの、といっても中古屋に行くのだが、出物はなかったようで、結局、今まで夫が使っていたのを譲ってくれた。これは中古で3万円。起動が速くなり、画面が少し大きくなり、音まで出る。感動的だ。
 
 機械は苦手。パソコンはなんとか使えるようになったが(難しいことはできない)、いまだにビデオもDVDも自分ではかけられない。機械にさわることそのものが、なんというか、気持ちがひるむのだ。コードレスの電話もようやくなれたが、通話切り替えなどはどうしていいかわからず、結局電話をもって家のなかを走り回る。携帯はもちろんもっていない。
 昔、母が洗濯機をこわがっていたことなど思い出す。母は昭和40年代半ばになっても、井戸のある家に住んでいたころは、たらいで洗濯していた。引っ越してから洗濯機を買ったが、こわかったらしく、子どもの私がのぞきこんだり、渦のなかに手をつっこんだりすると、「手がちぎれるよ!」と叱られた。
 
 いまや機械とつきあわずに生きていられないわけで、母ゆずりのこの苦手意識はなかなかやっかいなのだが、シュレッターで子どもが指を切断する事故の話などきくと、「手がちぎれるよ!」と叫んだ昭和1ケタ生まれの母の、機械への警戒心は正しかったかなあ、と思う。