金木犀

 金木犀が咲いた。庭はいい匂いがしている、はず、と思って外に出たら、便所の汲み取りさん来たらしく(このあたり、まだ水洗ではない)、まあ、そのような匂いがしている。花の香は木のところまで行って、嗅いでくる。
 
 13歳の誕生日に、そのころときどき遊びにきていたお姉さんに、日記帳をもらった。表紙は、赤い大きなバラの花の絵で、花の絵をこすると、花の香がします、というもの。そのころ、はやりだったのだと思う。その日記帳をもらってから私は日記を書きはじめた。
 花の絵の日記帳は毎日持ち歩いていて、数ヵ月後には、書き終わってしまった、と思う。その日記帳が終わったあとは、大学ノートに日記を書いて、それが最近までつづいていた。子どもが生まれた頃から大学ノートにはほとんど書かなくなった。なかば育児日誌なかば絵日記(これは小学生の自由帳を使っている)に移行し、それからブログに移行している。
 中学生の頃からの日記、数十冊の大学ノートの束は、いまも手もとにあるが、最初の花の絵の日記帳だけはない。書き終わってしばらくした頃、日記帳のきれいな装丁にくらべて、なかのページに書き付けた内容が、あまりに幼くて、字も下手で、たとえば「アンネの日記」のような、すてきなものではないと気づいて、こんなにきれいな日記帳に、こんなにつまらないことしか書けない自分がくやしくて、秋の終わり、だったと思うけれど、裏庭のドラム缶でゴミを燃やしているときに、1ページずつ破って、燃やしてしまったのだ。
 大学ノートのほうは、内容がどんなにおそまつでも気にならなかったのは、使い慣れていたからだろう。英語も数学も理科も、自分で宿題を解いてもあっているためしはなく、真っ赤に訂正するのがあたりまえだったし、汚れてあたりまえ、みっともなくてあたりまえのノートなのだった。そうして、日記帳というのは、そういうものがしっくりときた。
 
 花の絵の日記帳を燃やしてしまって、ひとつだけ残念なのは、そのなかに、その頃読んだヘルダーリンの詩を書き抜いていたのだが、それがどんな詩だったのか、もう思い出せなくなってしまったこと。好きな詩ぐらいずっと覚えているから大丈夫、とそのときは思っていたのだけれど、数年して、あれはなんだったっけ、と気になったときには、もうなんにも思い出せなかった。そしてそれ以来、ヘルダーリンを読んでいない。