『被差別部落の青春』

 そんなものがあることはすっかり忘れていた。父がそこに住んでいるにもかかわらず。部落。働かないのに給料を受け取っていた奈良の市職員が、解放同盟の幹部だったとか、 「部落地名総鑑」と題した全国の地名一覧が「2ちゃんねる」の掲示板に掲載され、削除されていたというニュースで、思い出した。それで読もうと思ったまま忘れていた本を読み始めた。『被差別部落の青春』(角岡伸彦著 講談社文庫)。
 小学校の同じ校区内にその部落はあったから、友だちもいた。そして私の友だちよりも両親の友だちがたくさんいて、よくうちに遊びにきていた。小学校の終わり頃から中学校の3年間、同和教育というのが学校であったけれど、それがその部落と関係するとは私は全然気づかずにいたけれど、あとから思い返せば、女の子たちの会話にも、その話は出てきていたのだ。「お母さんに○○くんが好きと言ったら、どこの子かときくから、△△と言ったら、そこの子は駄目だと言われた」というようなこと。中学校2年のときに、部落差別についての親へのアンケートがあって、自分の子どもが部落出身者と結婚したいと言ったらどうするか、というようなずいぶんつっこんだ内容だった。母が細かな字で、相手の人間性次第だというようなことを書いていたのを覚えている。母の頭には、具体的に友人たちやその子どもたちの顔が浮かんでいただろう。
 母が死んで父ひとり残された家も取り壊されて、近くに引っ越した父が、その後、友人のすすめで部落に引っ越すことになった。家賃が6分の1ですむからだ。しかもその家は、戦後、父が13歳で左官の親方のところに弟子入りしてすぐのころに手がけた家のようだというから因縁めいている。それ以来、帰省するときは私もその部落に帰る。小学校の頃、友だちがいたところ。いまはなくなっているけれど、牛小屋や鶏小屋のたくさんあったところ。つがいのチャボをもらったところ。乱暴な男の子がいて、4年生のある日、廊下を笛を吹きながら歩いていた。それが「タイガーマスク」のエンディングの曲で、(あたたかい人のなさけも、胸をうつあつい涙も、知らないで育ったぼくはみなしごさ♪ という例の曲) 音楽の教科書の曲はなんにも吹けないのに、どうしてその曲を吹けるのか、驚いたことがあった。乱暴者としか思わなかったその男の子に、不思議な共感をもった。
 フィリピンのゴミの山をはじめて訪れたとき、ゴミの臭いのなかに鶏の匂い、豚の匂いをかぎ分けたとき、いいようもなくなつかしく、不思議な安堵を感じたのは、子どもの頃に、その部落で嗅いだ匂いにつながっていて、たぶんそれは、私の心の古層にある何かなのだ。
 『被差別部落の青春』はいい本だと思う。著者が同世代ということもあるんだろうが、読みながら、しきりに幼馴染みたちのことを思い出した。あの土地とつながっていたのは、母たちが、生活の苦労や子どもの問題をわかちあっていたからだが、部落に限らずとも、貧しさはそこらじゅうにあった。働かない男たちや病気の女たち、あれこれの障がいを抱えた子どもたち。近所の人が母のところに米や味噌を借りにきた夕暮れ。裏の家でけんかがはじまれば、逃げてきた子どもたちを一晩あずかったりした。きっともう会うこともないだろうけれど、みんな元気だろうか。元気だろうか。