呪文

 ハローウィンなどというものを知ったのは、海外の小説を読みはじめた10代の頃だが、目や鼻や口のかたちをくりぬいたかぼちゃの絵とともに、それがすこし実体をもって感じられるようになったのは、ごく最近のような気がする。どんな実体か、というと、おもちゃ屋のディスプレイ、という程度のことだったりはするのだが。
 そういえばこの時期、おばけかぼちゃをよく見る。山口では長門峡の道の駅に大きなかぼちゃがごろごろ並んでいたし、昨日は隣町の道の駅に久しぶりに行ったのだが(9月の大雨で壊れた道路は、まだ修復できてなくて、迂回路を通って行った)、店の前に、傷ついたかぼちゃが傷を泣いている顔をかかれて、転がっていた。
 
 笑っているすいかは見たことがある。それは夜のなかをゆらゆら、光りながら近づいてきた。祖父が生きていたころだから、5歳より前の夏の夜、私たちが住む小屋のほうへ、中庭をよぎって、笑うすいかはやってきた。祖父がちいさなすいかの中身をくりぬいて、ろうそくをともしていたのだが、どうしてそんなものがつくれるのか、ふしぎでふしぎでふしぎで、あのころ、大人はときどき魔法使いに見えた。
 小学校の頃、小さなすいかを見つけると、スプーンでせっせと中身をくりぬいて、祖父がつくってくれたと同じものをつくろうとしたことを覚えている。
 
 わざわざ中身をくりぬくまでもなく、私はもうからっぽでがらんどうになっているような気がすることがある。きっと昔なら焦ったのだが、焦ってもしょうがないやと最近は思う。がらんどうだから役に立つものもないわけではない。たとえばすいかのおばけ。たとえばオルゴールの箱。ろうそくをともしたり音を響かせるためには、ものが詰まっていてはいけないのだ。そして私のがらんどう、いまは家のなかをどたどた走り回る子どもの足音をひびかせている。
 「ちちんぷいぷい かきくけこの ぽいぽい」
 いまは子どもが魔法使いに見えたりするけれど、ちびさん、それはなんの呪文でしょうか。