世界史

 高校の履修不足の問題のひろがりには驚いたけれど、そうなったのも仕方ない気はする。地方の高校で塾にも行けなかった自分のことを振り返っても、受験勉強といったって学校の授業が頼り。履修する教科を減らしても、受験対策に配慮してくれるのは、もしかしたらとてもありがたいかもしれない。
 でも高校時代、一番好きな教科は世界史だったのだ。だからというわけではないが、高校で世界史を学べないのは、とてもとても残念なことだと思う。高校時代の学習の仕方なんて、試験前に教科書の内容をとにかく頭につめこんで、試験が終わったら忘れるということでしかなかったけれど。年号を覚えなければいけなかったたくさんの戦争も、ただ年号を覚えるだけで、そのひとつひとつが人間の暮らしを襲った殺戮なのだと、そういうことも気づかずにいるわけだけれど、それでも、歴史は学んでおくべきだ。歴史を知らないで大人になることは、怖い、と思う。歳月を経るごとにそう思う。
 ユダヤ人の迫害について、教師に質問したことがある。そもそもの理由はなんでしょう。「宗教よ」と教師が言ったのが、いまも忘れられない。目に見えるものだけが世界を動かしているわけではないのだ。日本の歴史書には「大鏡」「吾妻鏡」など「鏡」の文字がついたが、思えば、あれこれの思想や哲学は、歴史を鏡にして育っていったのではないだろうか。そして、哲学を失ったら、人間とはそもそも何だろうか。
 
 夜中に映画『伽倻子のために』をやっていて、見入ってしまった。20年前に映画館で観て以来かもしれない。きれいな映像で、なつかしかった。物語の舞台は1950年代終わりの東京と北海道だが、建物や暮らしぶりの貧しさが以前に見たときよりも、際立って強く感じられた。ストーリーよりもそちらのほうが切なく感じられたのが自分で意外だった。島民の3分の1が殺されたという済州島の動乱から逃げて、密入国してきた女性の話す場面を見ていて、原作は文学として書かれたわけだけれど、この登場人物は、文学を生きたのではなくて、地獄を生きたのだと、いきなり生々しく感じた。この映画だって、せめて日韓併合の歴史を知らなければ、ほとんど何にも理解できないだろう。
 
 知らなければ、心が届いてゆかない。そういうこともあるだろうと、思う。