無事に

 帰国しました。4年半ぶりのフィリピンの、滞在はたった2日という慌しさだったけれど、会いたい人にはみんな会えて、食べたいものも食べれて、というか、食べつづけ、呑み続けだった。4年半の歳月が嘘のように、会えばたちまち家族のなかにいるようななつかしさだった。子どもたちは見違えるように大きくなっていたけれど、小さい頃そのままの笑顔をみせてくれる。
 
 25日朝、福岡からチャイナエアライン台北経由マニラ着。そのまま、タガイタイへ。
 
 26日、タガイタイ市内でJの結婚式。ゆかたを着るのは、高校生のとき以来だ。タガイタイは風光明媚な景勝地
 夜、パヤタスへ。学校(パアララン・パンタオ)周辺はすでにゴミの山と化しているので、ゴミのなかにもぐりに行くような感じだ。教室は、移転準備のために荷物の山。
 
 27日、ゴミの山は子どもの立ち入りが禁止されている、はずだけれど、ガードマンの目が届かないところもあるのだろう、学校周辺では、どうみても10歳は越えていない子どもたちがゴミを拾っていた。この数年、治安がどんどん悪くなっているから、案内なしに出歩いてはいけないというので、したがう。レティ先生が膝が悪いのは知っているので、最小限、必要な場所のほかは、連れていってほしいともいえない。それでも、顔見知りのTさんが、ゴミの山のすぐ麓まで、集落のなかも、一緒に歩いてくれた。Tさんは、目の手術がうまくいかなくて、片目がもう見えない。麓の集落、見慣れた景色だが、それでも久しぶりに見ると、ゴミのなかに、廃材の掘っ立て小屋でできた集落は、こんなところに人間が住んでいていいはずはないと思う。
 やせた皮膚病の野良犬がうろうろしている。狂犬病のニュースをきいたあとでは、さすがにひるむ。ここの犬が狂犬病でない、とはとても思えない。
 ふいに、柵の向こうのゴミのなかから、名前を呼ばれたので、びっくりした。以前、学校の近くに住んでいた女の子が、小さな妹と一緒にゴミのなかに立っている。家は立ち退きで、遠くなったけれど、こうしてごみ拾いにきている。もう17歳になっている。私がここにいなかった4年半の間も、毎日こうやってゴミを拾いつづけて、いたんだ。抱きしめたい気持ちだったけど、柵があって行けない。柵越しに写真だけ撮らせてね。
 学校の移転先の予定地では、校舎の工事をしている。柱と壁がすこしだけできている。今の校舎より、やや狭い感じ。
 エラプ分校に行く。03年の開校だから、はじめて見る。3階は、建築が中断されたまま。柱と屋根だけあって、壁がない。お金がないのだ。ベテランの教師がやめてしまったのも、給料が安すぎるせい。給料をあげなければ、教師が確保できないだろう。資金不足は、いつものことながら、大きな問題だ。一方で生徒は200人を超えて、とても受け入れられないほど、希望者が多い。近くには別の国のNGOが運営していたフリースクールもあって建物も立派なのだが、教師の給料や生徒の授業料などの金銭トラブルで、閉鎖に追い込まれたらしい。そういう話を聞くと、こんなにお金がなくて、この学校がつづいているのは、奇跡のようなことだと思う。
 夕方、まだ日のあるうちから、ビールを飲み、もうとてもひさしぶりに、バロット(ひよこになる寸前の卵)を2個食べる。夜また誰かが買ってきてくれたが、とても食べられないので、持って帰ることにする。お土産にもらったワインは飲んで帰る。それで、バロット、日本までもって帰ったんだが、荷物の中で潰れていて、捨てなければならなくなったのが、とても残念。
 
 28日 もらって帰らなければならない領収書数通、レティ先生に書いてもらって、早朝、学校を出る。88年から18年間たくさんの子どもたちが学んだ教室。私にとってもなつかしい校舎。最後に見ることができてよかった。もうこの建物に帰ってくることは、ない。夜、福岡に着いたら、雪。
 
 私のいない間、子どもは、義父母の家で、機関車トーマスのおもちゃを買ってもらって、いい子で遊んでいたそうで、よかった。もしきみがぐずって、義父母を困らせたりしたら、もう2度と行かせてもらえなくなるんじゃないかと、心配でした。もう少し大きくなったら、一緒に行こう。きみは、そしてもちろん私も、あの土地の子どもたちから、学ぶことが、たくさんあります。