「臺灣萬葉集」

 「臺灣萬葉集」という本。本棚に並んでいるのが目にとまる。下巻のみ。あとがきの日付が1992年10月とあるから、きっと93年のはじめころに送られてきたのだろう。台湾台北市の孤蓬萬里氏から。その後、この本のことはよく知られるようになり、日本の出版社から「台湾万葉集」として刊行されたが、私の手もとにあるのは、台北市の印刷所で刷られた非売品。
 
 大学のアジア史の講義、小林先生の講義の内容は、日本がアジアをどのように侵略したか、ということに尽きたが、霧社の写真を見せられたことがあったような気がする。日本の統治下で、現地少数民族との間に、不幸な殺し合いがあった土地だ。その後の徹底した皇民化教育のために、民族の言葉はなくなって、かわりに日本語が記憶された。戦後どのくらいたっていたのか、先生が訪れたときも、子どもたちは母親のことを、「おかあさん」と呼んでいたんだそうだ。
 孤蓬萬里氏からおくられた「臺灣萬葉集」は、そういったことを、思い出させた。収録された2000ほどの短歌は、戦前に日本語で教育を受けた何百名もの台湾の人たちによって詠まれたもの。思いをもっともよく表現できるための言葉が、日本語だという人たちが、たくさんいたということなのだが、古い字体の漢字と、なめらかな日本語の歌と中国名のとりあわせが、不思議な感じだ。
 
 滿洲の兵への慰問文椰子の繪を添へしは公學校二年生の頃   蕭翔文
 旅先にフイヒテの書をば讀みつげど明日ある限り明日は深淵   林彩雲  
 
 お礼の手紙を出せないままになってしまった。あのころひどい状態だった。幻聴をきいていたような頃だったのだ。台北から来たピンクの表紙の本を、これはとても大切な本だと思いながら、その本について誰かと話すということもなかった。そうして数ヶ月が過ぎて、幻聴が聞こえなくなっても、精神の衰弱からすこしずつ回復していっても、それからはもう短歌の世界からも離れていて、結局、お手紙を出せないままになった。
 あれからその本が、日本で出版されたことを知ったのはずっと後になってのことで、数年前に孤蓬萬里氏が亡くなったことは、新聞で知った。
 
 福岡空港からマニラへフライトするとき、チャイナエアラインは、台北空港で乗り継ぎする。はじめて台湾の地に降り立ったとき、孤蓬萬里氏のいたところだ、と思った。そしてもう、いないところ。あの頃、この地から届いた本は、とても遠いところから届いたような、どうすればそこに向けて返事ができるのか、とほうもない気がしたのだけれど、それはここで生きていた人たちひとりのひとりの声であったということなのだと、ふと生々しかった。訪ねようと思えば、訪ねることも可能であったはずなのだ。
 国と国の距離、人と人の距離、遠いようで近く、近いようで遠い。
 
 「臺灣萬葉集」がふたたび編まれることはないだろう。ある時代を生きて滅んでゆくための本だ。かの国で短歌とともに生きのびた日本語。そして、歌詠みたちの死とともに、滅んでゆくさだめのかの国の日本語。