一つの鍵が

 あれは奇妙に寒い夏だった。真夏でも長袖でいたし、本州の北のほうまで行くと、9月なのに、ときどきはストーブを焚いていた。その夏に、北に住んでいた人が教えてくれたのが、嵯峨信之の詩だった。机の上に詩集が置かれていたので、「何がいい?」と聞いたら、「四国の女、というのがいいよ」と言ったのだが、ほんとうは「淡路の女」というタイトルだった。
 
  淡路の女  嵯峨信之
 
ぼくは愛した
女は二倍も三倍もぼくを愛した
七月の濃い日かげの庭を横切ると
ひそひそとやさしくささやいている女の声が聞こえる
淡路からきてる女と話しているらしい
その意味はよくききとれないが
東京にきてからただ躓いてばかりいるという一言がわかつた
いつたいこの世に躓かぬ人間というものがあろうか
たとえば夫婦についていえば
昔からうまくいつたというためしがない
何にでも合うつもりの一つの鍵が何にも合わず
やがて千の鍵をじやらじやらいわせながら目まぐるしく一生を終るのだ
それが人間のさだめというものだろう
どつちみちなにかの周りを大きくめぐるか小さくめぐるかだ
女は重い鍵の一束をあずけて淡路島へ帰つていつた

 「何にでも合うつもりの一つの鍵が何にも合わず」という一行が心臓にささった。それはその時期の私の絶望を言いあてていた。とはいえ千の鍵をじゃらじゃらいわせる気力が、自分に残っているとも思えず、思えばなんて途方にくれていたことだろう。
 たぶん、ほんのすこし何かが足りないばっかりに、生きることが途方もなく難しくなってしまうこともあるのだ。たとえばそれは、すこしばかりのお金だったり、世の中についてのすこしばかりの知識だったり。千の鍵ほどたいそうなことでもないのかもしれないのだが。 
 
 それにしたって、千の鍵をじゃらじゃらいわせる気力のないものは、たった一つの鍵が、何かに合えば喜び、合わなければ悲しみ、ぼんやりしているようでも、けっこうふらふらになりながら、生きていたりするんである。