媚と蔑

思い出したので、白川静の本を引っぱり出してみる。
古代の漢字について。字源辞典「字統」の、「媚」の項目。
「眉は眉飾り。媚はその眉飾りを施したもので、巫女をいう」
戦争のときは数千人の巫女を軍の先頭に並べて、呪術で攻撃した、という。
そして「蔑」はその巫女に、戈(ほこ)を加える形。
「戦争などのとき、この媚と呼ばれる巫女が呪祝を行なうので、戦が終るとその巫女を斬り、敵の呪能を無力にする。これを蔑という」

「戦争は女の顔をしていない」は、ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナの本のタイトルだけれど(まだ読んでいない。「チェルノブィリの祈り」は読んだ)、

戦争は、女の顔を晒して、はじまったのだ。

かつて、キリシタン大名たちは、海外から火薬を手に入れるために、娘たちを人身売買していたというし、明治の富国強兵の背後にも、海外に売り飛ばされた女たちがいて(きみたちは外貨獲得の戦士なのだと、からゆきさんを激励する古い新聞記事を読んだ記憶があるが)、おそらくそういう伝統の上に、いわゆる慰安婦の存在もあるのだろうなあと、思う。

日韓の懸念の問題はさておいて、
あの少女像が、一体だけでなく、増殖しつづけていること、お土産用のミニチュアまで販売されているという記事を読んで、これは理解を超えるなあと思い、それから、「媚」のことを思い出したわけだった。

解決はするのかな。
たとえば、おばあさんが、口を開くと、おじいさんの悪口を言い、その愚痴がどうにもとまらないような、それを黙らせる術はないような、そんな問題に思えてくる。「私が一番憎いのはおじいさん」と顔あわせる度に聞かされるような。いやいやでも、おじいさんのおかげでご飯を食べられたんじゃないの、などと口を挟めないと思うよ。愚痴を言いつづけることがしあわせかどうかは別として。

とにかく、女たちを利用したり、粗末に扱ったら、後々までもやねこいぞ、というメッセージは伝わってくる。
あの少女像たちは「媚」だろうか。
そう考えると、何千体出現しても不思議ではないわけだ。

負けて首切られるのは、まず「媚」たちであるが、銅像の首ですむならどうってことない。
銅像の首ですむのなら。