どんなふうに老いるにしても

 昨日は、あれこれの用件を片付けに街に降りた。郵便局税務署銀行とまわった後、知人の老夫婦のところに寄る。寝たきりになったおばさんを、80歳になるおじさんが介護している。どんな日常も、ただごとではないなあと思う。
 昔バイトしていた店でごはんを食べる。食事代をとってくれないので、家族でただ食いなのだが、近くまできて寄らない、ということもまた、できないのだった。あらためて眺めると、木の机も椅子もとてもいいものだよ、と夫が言う。聞くと、別の店で使っていた時代も含めて33年前からのもの。「そういえば私は気づいたんだけれど」とお店のママが言う。「人生のちょうど半分、33年間、私はお店をしているのよ」。
 昔、私が学生の頃に一緒にバイトしていた他の人たちの、その後の消息の話になるが、同じ寮に住んでいたというのに、名前を聞いても顔が思い出せない、顔を思い出しても名前が思い出せない、歳月が過ぎたせいばかりでなく、変化の激しかったせいもあるんだろうけれど、それにしたって私の頭は大丈夫だろうか。
 どんなふうに老いていくにしても、精神の朗らかさだけは大切だと、ふいに思ったりする。
 
 お兄さんやお姉さんで生まれるのが得か、弟や妹とで生まれるのが得か、という話を、小学生の頃、母と夜道を歩きながらしたことがあった。先に生まれるほうがいい、と母が言った。なぜ、と聞いたら、はやく生まれた分、親が長く生きてくれるから、と答えた。そんなことを、脈絡もなく、思い出す。母は6人兄妹の末っ子だった。