ある年齢

 昨日の朝庭に出ると、何かはらはら降っている。桜が散っているんだろうか、とまず思い、でも、まだ咲いていない桜が散ることはできないと気づき、近くの庭か畑で、ゴミを燃やしていて、その灰が飛んできているんだろうかと思い、でもものを焼くにおいはしていない、と思って、それから気がついた。雪だ。
 もうすっかり春になっていくんだと思っていたから、雪とは思いがけないことだった。そういえば寒い。といっても、すこしちらついただけだったが。今日は雨。寒い。
 
 須賀敦子全集が、文庫で出ている。単行本未収録のエッセイなどもあるので、ぱらぱら読んでいた。第2巻のエッセイには、作品のなかでは語らなかったこと、イタリア人の夫を亡くして日本に帰国して、しばらくエマウスの活動、共同生活しながら廃品回収をするボランティア運動、をしていた頃に書いたものもあって、興味深い。
 それから翻訳の仕事について。ナタリア・ギンズブルグというイタリアの作家の小説『モンテ・フェルモの丘の家』は、昔読んだときはピンとこなくて、読みかけたまま放ってしまったが、訳者の書いたものを読んでいると、ああそういうことだったのかと、心に届いてくるものがある。たとえば次のようなくだり。
 
 「しかし、選択でないようでいて、ジュゼッペはやはりつぎつぎと選択をしているのだ。そのことが、読者の心の深いところで、一種の共感を呼びおこす。わかいころ私たちは、あらゆることにおいて、自分の選択が、人生の曲がり目を決定していくと信じていた。プラトンを読んだり、小説を書こうとしているジュゼッペにもそんな時代はあったはずだ。しかし、人間はある年齢になると、自分の選択について、他人にも、自分にたいしてさえも、説明することをしなくなる。説明するにはあまりにも不合理なところで人生が進んで行くことを、いやというほど知らされているからである。だから、著者のギンズブルグもそのことについて、くだくだ言わない。」(小説のなかの家族)
 
 私も「ある年齢」になったかもしれないなあ、と思った。