正しい歴史

 もう80歳くらいになるだろうか、子どもの頃からの古い知り合いのおじさんは、戦争に行く前に敗戦になったのだが、同窓会に教師が来るときくと、絶対に行かなかった。軍国主義を教えて、生徒を戦地に行かせたくせに、戦後は口を拭って民主主義を言い出した教師をゆるせない、とずっと言っていた。
 そのおじさん、戦後しばらく、神戸で警官をしていた。容疑者を蹴ったり殴ったりもしていたらしい。そういう時代だったって。その頃の上司に、戦争中に朝鮮にいたという人がいて、毎日、トラックで村村をまわって、若い娘を強制連行するのが仕事だったと言っていた。上から指示された人数だけ、トラックにのせる。そのときは泣き叫ぶ家族から娘を引き剥がしても、なんとも思わなかったそうだ。そうして、どの村から何人娘を連れてきた、という報告書を書いていた。だから、とおじさんは言うのだ。従軍慰安婦は、公の機関に報告書があるはずの(もちろんそんな報告書をとっておくはずもないだろうが)、公の仕事だったのである。
 従軍慰安婦のことも、沖縄の集団自決のことも、軍や国家の仕業でなければ、いったい誰の仕業だろうか。兵隊の相手をさせられたのなら、軍の慰安婦だったのだ。娘たちをトラックに乗せたのは役人だし、自決の手榴弾を配ったのは日本の軍人で、それでいて関与はないと、なんだかよくわからない。いったい何を隠したくて何を守りたいのか。
 
 被害と加害は分かちがたく、被害者として、または加害者として、あるいは両方の立場で、歴史、あるいは犯罪を成立させている。被害はわかりやすい。自分が痛いから。でも加害については、自分ではわからない。加害の実態をもっともよく知るのは被害者であり、被害者から教えてもらわなければならないことなのだ。自虐史観の克服は、自己の全体像の回復にほかならないはずであり、つとめて努力しなければならないのは、加害者としての自己像の回復であり、それを欠いたままでは、いつまでも苦しまなければならないのは、この美しい国日本だろう。
 
 もう亡くなってしまわれただろう。会ったことはないのだが、テープおこしをしたので、声を聞いた。学生の頃。韓国で生まれたお婆さんで、日本に出稼ぎに行ったお母さんに会いたくて、日本に若い娘の働き口があると言われて、船に乗った。下関から汽車に乗って連れてゆかれたのは京都のほうで、働き口は遊郭だった。だまされて売られたのだ。だましたのは日本人。何年かそこにいて、それから結婚することになって広島に来た。たくさん子どもがいて奥さんが死んで困っている男の人のところだった。だがその家族も原爆でみんな死んだ。自分ひとりだけ生き残った。戦後になって、日本にきていた母親がとっくに韓国に帰って弟たちと一緒にいることがわかった。でも自分に帰ってこいと言ってはくれなかった。そのままずっと、ひとりで広島で暮らした。「平和のためだから」。そう言って、そのお婆さんに被爆体験を語るように励ましたお婆さんも被爆者で、被爆して体が弱いことと朝鮮人だということに将来を悲観した息子さんを自殺で失っていた。
 
 在日韓国人女性被爆者の被爆体験の聞き書きに携わったのだった。テープレコーダーを抱えていくのだが、話したくないと何度も言われた。あんたらに話したってどうせわからん。きっとそのとおりなのだ。わかってもらえないことを、話さなければならないことは、幾重にもこの人を傷つけることになるんじゃないかと、被爆体験を聞かせてほしいなどと、どうしてそんなことを言っていいのだろうと、葛藤もしたけれど、歳月が過ぎて、こうして次々に鬼籍に入られてみると(先日もひとり亡くなった)、聞かせてもらってよかった、と思う。今でも耳の奥に声が残っている。話したくない、といった人が、ある日せきを切ったように話し始め、家族のことを公にすることも「本当のことだから」とためらわず、「正しい歴史を残してちょうだい」と言ったのだ。学校にはいけなかった人たち、韓国語も忘れて日本語も下手で、自分は中途半端な人間だと、自嘲するお婆さんもいたが、「正しい歴史」がどこにあるかを、彼女たちは知っていたし、私もまた彼女たちから教えてもらったと思う。