自由と生存の

 「自由と生存のメーデー」というスローガンだったらしい。フリーターたちのデモが東京であったらしい。声をあげることは、大切だ。
 「労働は自由への道」という言葉を反射的に思い出したりする。これは、アウシュビッツ絶滅収容所に掲げられたスローガンだった。
 
 私もずっとフリーターだった。今でこそ、フリーター労働の苦しさも知られるようになってきたが、すこし前までは、フリーターなんて気楽な稼業だと思われていたのだ。そんな責任のない生き方をして、と蔑むような言われ方をした。今は別の意味で、おそらく生活の苦しさゆえに、蔑まれていることだろう。
 フリーターで働くのはつらいのだ。正社員と同じ仕事を、その3分の1、5分の1、それ以下の賃金でしなければならないことのやりきれなさ。ばかばかしいので、さぼりたくなる、手を抜けることは極力手を抜くようになる、そんなことをしていたらいずれ事故もおきるだろうが、それ以前に魂が荒れてくる。
 魂をまもるには、良心的に一生懸命働くしかない。また、そうしなければ、いつでも首を切られる立場だから、身分を保証された人たちが、適当に息抜きしたり、リラックスしている同じフロアで、なんだかいつも急ぎの仕事をさせられている。人がやりたがらない仕事ばかりがまわってくる。
 何年働いても、雇用保険もなく昇給もなく、そういうことを考えてくれる人もいない。何年かに一度、時給が10円ぐらいあがればありがたいか。
 あの、いいようのない疲労感。魂が疲労する。疲労して何も考えられなくなってしまう。
 どんな権利も最初っからないのだと、感じるようになっている。そういうふうに自分を仕向けてゆかないと、耐えていかれないのだ。
 思えば好景気だとか、豊かさだとか、誰の犠牲の上に成り立っていることか。
 あのころ、シモーヌ・ヴェイユの労働に関する省察を読みふけった。「工場日記」は泣きながら読んだ。
 
 「じじつ工場で働く者たちのうちで真に悲惨な部分をなす青少年、女性、移民、外国人、植民地人などの労働者はかえりみられなかった。彼らの苦悩の総和は、組合活動においては、すでに十分な報酬を受けている者たちの昇給問題にくらべて、はるかに重んじられることが少なかったのである。
 集団活動が実際に正義をめざすことがいかに困難であるか、不幸な人間たちが実際に擁護されることがいかに困難であるかをこれほどよく証明しているものはない。彼らは自分の力でその身を守ることができずにいる。不幸のため彼らはそうすることを阻まれているからである。また彼らは外部からも守ってもらえない。人間本来の傾向は、不幸な人間たちに注意を向けないところにあるのだから。」(労働者の根こぎ) S・ヴェイユ「根をもつこと」
 
 でもたぶん本当に不幸なのは、他人の不幸の上に、自分の幸福を成り立たせているものたちで、ある主の幸運によってか、何によってかわからないけれど、傍らの不幸に気づきもせず、たとえ不正義がなされていても、すでに享受している富を手離せなくなっているものたちなのだと思う。「すでに十分な報酬を受けている者たち」が、職場の人間関係や他人の給与のことや、あれこれの噂話で口を汚していたりするのを、心底ばかばかしい気持ちで私は見ていました。この人たちの仲間でなくてよかったと、思ったものです。